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『シュガー・ラッシュ:オンライン』は“ゲーム界”をどう映した? ヴァネロペとラルフの存在が示すプレイヤーの心理

2019年01月04日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 アーケードゲームのキャラクターたちが生きる世界を映像化した、ディズニー映画『シュガー・ラッシュ』の続編、『シュガー・ラッシュ:オンライン』は、その激甘なタイトルとは裏腹に、なんともビターなテイストの、しかし革新的な作品だった。


 前作と同じく、レースゲームのプリンセスであるヴァネロペと、その親友である心優しいゲームの悪役ラルフを主人公にした本作。今回描かれるのは、二人の気持ちのすれ違いだ。新しい世界に憧れるヴァネロペと、古い世界を愛するラルフ。価値観の違いから生まれた二人の友情の亀裂は、ゲームやインターネット世界の存亡の危機にまで発展していく。


参考:ハリウッドが抱える“ゲーム原作実写の呪い”


 いまゲームの世界では、本作で描かれるように、二つの価値観による葛藤が発生している。オンラインゲームの到来はゲームの世界に何をもたらしたのか? ここでは、『シュガー・ラッシュ:オンライン』が表現した、現在のゲーム界の問題について考えていきたい。


■ネットによって生まれた新しいゲーム


 ラルフは、『パックマン』や『ドンキーコング』などと同じ、ドット絵で表現された古い世代のゲームの2Dキャラクターだ。対してヴァネロペは、その下の世代、ポリゴンで構成される3Dキャラクターである。ゲーム表現が、2Dから3Dに移行したことは、革命的な進化だったといえよう。だがさらに、ゲームはインターネットによって、さらなる新しい可能性を獲得した。


 最も大きい変化の一つは、自宅や街中、公園やカフェの中など、ネットさえつながれば、配信される最新ゲームが手に入れられるようになったことだ。その意味で、かつて最新の技術が集まる場であったゲームセンターは、その役割を一部終えているように見える。さらに携帯機種やスマートフォンでのプレイ環境も充実し、ユーザーの選択肢は飛躍的に増えている。


 そのような新しい時代が到来したことで、ゲームセンターのデータという閉じられた空間の中に生きていたヴァネロペもラルフも、本人たちが気づかないうちに、時代から取り残された存在になっていたのだ。


 そんな二人が、インターネットの回線によって、ネット上のあらゆるサービスと触れる冒険をするのが本作の物語だ。動画サイトやオークションサイト、ディズニーのサイトや、広告をクリックしてたどり着く怪しげなサービスなどなど、実際の企業名も続々登場する。


 二人はインターネット世界の規模の大きさや可能性に圧倒されるが、そのなかでヴァネロペが最も魅了されたのが、最新のレースゲーム「スローター・レース」だった。その過激でワイルドな世界は、『グランド・セフト・オート』シリーズなどの大人向けゲームを彷彿とさせる。


■絶えず更新される世界


 このあたりは、ディズニー映画ながら都市の犯罪や腐敗を描いた『ズートピア』(2016年)で、原案・脚本を担当した、フィル・ジョンストンが監督の1人を務めているだけのことはある。ディズニー・プリンセスが、暴力的な表現が絶えず世間の槍玉にあがるようなタイプのゲーム世界に惹きつけられるというのは、衝撃的な展開だといえよう。


 だが、ヴァネロペが「スローター・レース」に魅了されたのは、暴力的側面というよりは、このゲームが、3Dで構築された世界の中で好きなように動くことが可能なオープン・ワールドのゲームであることであり、さらにオンラインによってそれが日々更新されていくという点である。


 劇中、ヴァネロペはアーケードゲーム「シュガー・ラッシュ」の中で、日々繰り返される一本道のレースに不満を覚えていた。ラルフが気を利かせて、ヴァネロペのためにワイルドな新コースを作って大いに喜ばせたように、より自由さを求めるヴァネロペに必要だったのは、まさに「スローター・レース」のようなオンラインゲームだったのだ。


 『グランド・セフト・オートV』における「GTAオンライン」のように、インターネットによって、その世界は日々更新され、ユーザーのゲームデータを書き換えながら、新しい場所やアイテムの追加、イベントなど、どんどん新しい可能性が広がってゆく。それは、いまやスタンダードなゲームの楽しみ方となっている。


 ただ、その前の時代を知っている世代のなかには、この新しい楽しみ方に違和感を覚えている人もいる。本作でその象徴として描かれるのがラルフである。


■新しい可能性がもたらした違和感


 それだけで完結している、ネットに接続されない古いゲームは、一本の映画のように、一つの「作品」として理解することができる。だが、スタッフが入れ代わりながら定期的に更新され運営される、“いつまでも完成しきらない”オンラインゲームは、それとは異質な趣がある。


 メーカーが費用をかけてネットゲームを更新する理由は、それが課金や広告などで継続的な収入をもたらしてくれるという計算があるからだ。なので会社はユーザーの人気がある限り続け、閑散としてくれば、更新がなくなっていったり、見切りをつけられる流れが多い。


 人気によって続けたり打ち切りになったりが決まるのは、そのようなシステムを採用している、アメリカのTVドラマシリーズや、日本の雑誌に連載されている漫画作品なども同様だ。もちろん例外も多くあるのだが、それらには、共通した構造上の問題が存在する。


 作品には、描かれるテーマや要素などによって、適切な長さというものがあるはずだ。すでに描くべきことを描き終わっているはずなのに、人気があることで存続し、ダラダラと惰性で同じような展開を繰り返して、人気が無くなると終わらせる……そのようなシステムによって、名作となり得たはずの作品が、全体的に眺めてみたときに、つまらないものになってしまっていたというケースは、よくあることだ。このように、受け手の要求に従って作品を提供することが、本当にゲームや漫画やドラマにとって、そして受け手自身にとっても良いことなのかということは、議論されねばならない問題だ。


 このような批判を回避するように、ストーリーのある多くのネット対応ゲームは、とりあえず最初のうちは従来のようなクローズドな内容をプレイさせておいて、一定のところでエンディングを体験させ、そこから決められた目的のない、完全なオープンワールドの冒険や、ネットによるイベントを楽しむモードに移行するという場合も多い。しかしそれは、エンディング以降のゲームを「作品」であることから切り離す行為だともいえよう。


 だから、それ以前のスタイルのゲームは、レトロゲームとして、いまもなお需要がある。ラルフは、スタンドアローンの美意識を好む、古い時代のゲームを知るプレイヤーの意識の象徴だといえよう。


■“違い”を認めることが、なぜ大事なのか


 しかし、時代は容赦なく進んでいく。オンラインゲームに違和感を覚えるプレイヤーとて、やはり新しいゲームも体験してみたいという人は多いだろう。つまり、そのように古い時代と新しい時代を知る現在のプレイヤーは、自分のなかに「古いゲームの良さ」と、「オンラインゲームの可能性」という、二つの価値観を持つことになる。本作で引き裂かれるヴァネロペとラルフは、まさに一人ひとりのプレイヤーのなかで分裂している意識であり、二人の葛藤もまた、プレイヤーの体験する心理状態ではないだろうか。


 劇中でも登場する「二重性」が、本作のキーワードである。ラルフのように、一人の人間を大事だと思うとき、そこでは往々にして「幸せになってほしい」という気持ちと、「独占したい」という気持ちが重なっている。そして、それらは場合によって反発し合ってしまうことがある。


 本作のもう一人の監督、リッチ・ムーアは、TVシリーズ『ザ・シンプソンズ』の監督の一人としても知られる。そのなかでエミー賞を受賞したエピソード「良心の呵責」は、違法な方法でケーブルTVを視聴して楽しむ父親と、それを咎める娘の関係を通し、現代人の意識の葛藤を表現していた。本作にも、そのように人間ドラマによって社会を浮き彫りにしていく方法が使われていると感じられる。


 ラルフが到達した、もう一つの価値観を尊重する気持ちは、ゲームの発展を受け入れ、より広い視野で楽しむために必要なものだ。そしてそれは、他の人種や国籍、性別の違いや趣味趣向への寛容さなど、多様な存在を認める態度でもある。


 その意識を持つことは、巡りめぐって本人をも救うことになるかもしれない。ラルフが「レトロゲーム」の一員という属性を持って存在しているように、そしてディズニープリンセスたちや、過激なアクションゲームが、インターネットという世界に共存しているように、本作を観ている全ての観客も、現実の世界で人と違った何らかの個性を持って存在しているはずだからである。他者を認めることは、自分を認めることでもあるのだ。


(小野寺系)