トップへ

『ヘレディタリー/継承』音楽がもたらすエレガンス  ポピュラーミュージックと映画音楽は更に接近

2018年12月29日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 2010年代はポピュラー・ミュージックと映画音楽がより近づいたディケイドとも言われているが、たしかに普段はポピュラー・ミュージック・フィールドで活躍しているミュージシャンが映画のスコアを手がけることも珍しくなくなったし、そこから「映画音楽家」と呼べる作家も現れ続けている。


 典型的なのはレディオヘッドのギタリスト/マルチ・プレイヤーであり作曲家のジョニー・グリーンウッドで、ポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(07)以来、着実に作品を重ねてきた。あるいは『ソーシャル・ネットワーク』(10)での仕事が話題となったナイン・インチ・ネイルズのトレント・レズナーとアッティカス・ロスの活躍も、それまでのいわゆる「劇伴」でないタッチの音楽が求められ始めたことを示しているだろう。『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』(13)、『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』(16)の音楽を担当したミカチュウことミカ・レヴィや、『グッド・タイム』(17)のワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、あるいは日本映画では独自のノイズやアンビエントを探求するジム・オルークの活躍のように、先鋭的な音楽それ自体が映画の重要な部分を担うものも少なくない。2018年(日本公開作)でもまた、そうしたクラシックな映画音楽の範疇をはみ出すポピュラー・ミュージック畑出身のミュージシャンの活躍が見られた。


 その筆頭に挙がるのはやはり、ポール・トーマス・アンダーソン『ファントム・スレッド』とリン・ラムジー『ビューティフル・デイ』という2作で、しかもまったく違う作風を見せたジョニー・グリ―ンウッドだろう。なかば大仰なほど華麗なストリングスで荘厳に聴かせた『ファントム・スレッド』、エレクトロニカやノイズ、テクノやミニマルといった多ジャンルの音楽を繊細かつ大胆に混ぜ合わせた『ビューティフル・デイ』。前者はPTA監督初となるゴシック・ロマンス、さらにはオートクチュール界の優雅なイメージに合わせたものだろうが、ただクラシックなだけでなくアンビエントやコンテンポラリー・ミュージックの要素が入っている点で彼らしさが発揮されている。それはPTA作品の変わらぬ現代性を支えていると言っていいだろう。いっぽう後者では彼の実験精神が顕著に発揮されているが、それは映画での使われ方とも連動することとなった。実際に映画を観ると映画のなかの環境音なのか、スコアのノイズか判断しかねる箇所が多々発生するのだが、これは明らかに意図的なものだろう。汚れた街で生きる孤独な人間を描いた同作の、「軋み」のようなものが音によって表現されているのだ。どちらの作品においても、グリーンウッドの音楽が映画の主題やモチーフと分かちがたく結びついているのは間違いない。


 80年代から映画音楽でも活躍するニック・ケイヴとウォーレン・エリスのコンビによる『ウインド・リバー』の音楽もまた、映画の醸す情感をたっぷりと鳴らしていた。同作は脚本家としては〈フロンティア3部作〉の最終作、監督としては初となったテイラー・シェリダンによる一本だが、エリスによる弦の調べや温かい鍵盤の音が、アメリカから見棄てられた田舎町の悲劇と寄り添っていく。ニック・ケイヴによって殺された女性の詩も朗読されるのだが、彼らの音楽の痛切な響きは間違いなくケイヴの諸作(とくにニック・ケイヴ&ザ・バッド・シーズの最近作である『スケルトン・ツリー』)と通ずるものである。彼の音楽活動そのものが、辿ってきた道のりが映画の物語と呼応しているようにすら感じられるのである。


 日本映画において話題になったのは、白石和彌『止められるのか、俺たちを』の音楽を手がけた曽我部恵一と、濱口竜介『寝ても覚めても』ではじめて映画音楽を担当したtofubeatsだろうか。実際に映画を観ると、どちらも彼らの存在が必要だったことがよくわかる。『止められるか、俺たちを』は若松プロダクションが若々しく向こう見ずだった時代を描いた青春群像劇だったが、若松孝二に少なからず影響を受けてきた曽我部恵一が若松プロダクションに所属していた白石和彌監督とタッグを組むことで、若松孝二に惜しみなく敬意を払うものとなっている。ギリギリとしたギター・サウンド、あるいは青春の苦さ自体を甘さを伴いつつ示す歌。いっぽうの『寝ても覚めても』は、世界に日本映画のニューウェーヴを印象づけた濱口竜介監督の「商業デビュー作」であるがゆえに、ポップ・フィールドとオルタナティヴを自在に行き来するtofubeatsがうまくはまったのだろう。主人公朝子が飲みこまれることになる非日常としての「運命」の不穏さが映画にはあったが、その抽象的な風合いを背負っていたのはtofubeatsのスコアだった。主題歌に当たる「RIVER」というメロウなラヴ・ソングで映画の後味を真っ向から引き受けていたのも嬉しい驚きだった。


 ちなみに、tofubeatsに直接取材する機会があったので、これからも映画音楽を手がける可能性に尋ねてみると「まだわからない」とのことだったが、勝手なことを言ってしまえばぜひ挑戦してほしいと思う。というのは、新しい世代の音楽家が様々なレイヤーで映画に新しい風をもたらしているからである。これは日本でも海外でも同じことが言えると思う。


 最後に個人的なサウンドトラック賞を挙げるとすれば、アリ・アスター『ヘレディタリー/継承』の音楽を手がけたコリン・ステットソンだ。あまり知られていないミュージシャンだと思うが、ボン・イヴェールやアーケイド・ファイアなどインディ・ロックの客演でも知られるサックス奏者/作曲家で、ソロ作ではアヴァンギャルドで獰猛なバリトン・サックスの演奏や荘厳でダークなオーケストラが聴ける。うつなどメンタル・ヘルスの問題や家族のコミュニケーション不全を執拗に描いていた『ヘレディタリー/継承』だが、ステットソンが鳴らす重々しい暗黒は映画の途方もない恐怖や陰鬱さを存分に後押ししていた。が、ゆったりとしたカメラワークも相まって、それ以上に感じられるのがある種のエレガンス、気品のようなものである。映画が数十年後のクラシックとなり得るような威厳を讃えていたのは、音楽によるところも大きいだろう。


 2019年は早々にレディオヘッドのトム・ヨークが映画音楽をはじめて手がけたルカ・グァダニーノ版『サスペリア』があるが、これもまた、彼のソロ・ワークやレディオヘッドのエモーションとじゅうぶんに通じるものである。というより、彼の音楽が映画の感情面をかなりの部分で引き受けていると言えるものであった。ポピュラー・ミュージック・フィールドの作家が手がけるサウンドトラックは、いまや飾りものであることに満足せず紛れもない映画音楽として鳴っている。この動きはまだまだ続いていくだろう。(文=木津毅)