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星野源、『POP VIRUS』の可能性 “イエローミュージック”から“ポップ”への移行が意味するもの

2018年12月21日 16:22  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『POP VIRUS』は、2015年の『YELLOW DANCER』から数えて3年ぶりとなる星野源の5thアルバムだ。「恋」や「Family Song」、そして「アイデア」といったシングル曲が収録されていることはもちろん、STUTSやUjico*/Snail’s Houseなど若手プロデューサーの起用も注目を集める本作。シンセベースやリズムマシン、MPCなどのエレクトロニクスを前面に押し出したこともあって、アレンジやサウンドのバラエティはより豊かになった。一方で、ところどころ諦念さえ感じられるほのかに陰りを帯びた言葉は、“ポップ”が単なる聴き心地の良さとは異なることも物語る。


(関連:星野源、『FNS歌謡祭』で新曲「Pop Virus」をテレビ初披露 「アイデア」との共通点を考える


 星野は本作について、12月18日深夜の『星野源のオールナイトニッポン』(ニッポン放送)で、ダンスミュージックとしてビートを重視したと語っていた。また、自作解説でも、踊ることの重要性を説いている。その言葉通り、『POP VIRUS』は、現代的なダンスサウンドとファンクやソウルのエッセンスが同居した一作となった。手際よく整理されたメリハリの効いたサウンドが、挑戦的な楽曲に確かな説得力を与えているのも見事だ。


 本作を貫く特徴は、休符を活かしたアレンジと、一音の立ち上がりから鳴り終わりまでをしっかり聴かせるサウンドだ。休符の部分は恐らく編集で音量がカットされ、ほぼ無音になっている。こうして作り出される音と音のすき間は、リズムの微妙なニュアンスの違いが生むグルーヴの妙を強調する。そのため、「Pair Dancer」や「Dead Leaf」といったネオソウルであれ、「サピエンス」のようなドラムンベースであれ、親しみやすいメロディとは裏腹なスリリングなグルーヴが耳を捉える。メロディ、リズム等々、耳をすますポイントによって楽しみ方が変わってくる、実に聴きごたえのあるアルバムに仕上がっている。


 さて、前作『YELLOW DANCER』で打ち出した“イエローミュージック”から、星野が本作で掲げたコンセプトは“ポップ”。果たして、この移行はどのような意味を持つだろう。少し批判的な視座から考えてみたい。


 まず指摘したいのは、星野が言う“イエロー”が、すなわち“日本人”だということ。彼は繰り返し、日本人としてのアイデンティティを強調してきた。本物になりきれないことをポジティブに読み替え、“ブラック”でも“ホワイト”でもない“イエロー=日本人”の音楽をつくろう、というのが彼の意図だ。もちろんこれは、彼が敬愛する細野晴臣へのオマージュでもある。


 しかし、“イエロー”は日本人だけのものではない。「ブラック/ホワイト」という二項対立に加えられたこの色を、日本人が専有する道理はない。K-POPや88risingといったアジア圏のアーティストの活躍がメディアを賑わすいまならなおさらだ。たとえば二胡のサウンドが入っているからといって、“イエロー”を僭称することはできないはず。そもそも肌の色を使った人種表現自体、慎重にならなければならないのだが。


 Ujico*が参加したことで、本作は海外から注目を集める可能性もある。彼はCDリリースの経験こそないが、Spotifyでは2018年上半期に9番目に多く海外で聴かれた日本人ミュージシャンなのだ。この突破口から、本作はまさにウイルスのように国境を越えて人びとに感染するかもしれない。お茶の間ですっかりおなじみになった星野の音楽が日本の外へも訴求するのかが試される機会と言える。


 そして、日本を抜け出して海外に広まった時点で問われるのは、まさしくこの“イエロー=日本人”の自明性の是非だろう。そこで“イエローミュージック”のコンセプトは練り直されるのか、あるいは本作が志向するような、“ポップ”のコスモポリタンな普遍性へと一足とびに向かうのか?


 星野は『オールナイトニッポン』で、様々なエスニシティの人びとが落書きだらけの地下鉄で踊り出す「Pop Virus」のMVについて、「ニューヨークの地下鉄と言う人が多いが、未来の日本であり、ありえたかもしれない日本だと思っている」という旨を語っていた。彼のビジョンは恐らく、本稿の期待を裏切るような視野狭窄ではないはずだ。だとすれば、まずはこのウイルスを世界に放ってしまうことから始めるべきだろう。(imdkm)