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宮台真司の『A GHOST STORY』評(前編):『アンチクライスト』に繋がる<森>の映画

2018年12月20日 14:12  リアルサウンド

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■物語よりも世界観をモチーフとした映画群


 『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』は良い作品です。極めて低予算なのに1年以上前から全米で話題が沸騰していたのが理由で日本でも11月からの公開が決まり、見られるようになりました。素晴らしい作品なのに、日本では半分以上の観客が分からなかったという感想を抱いて帰ると聞きます。残念すぎるので、作品をちゃんと感じて貰えるための準備をします。


参考:人が本当に死ぬ瞬間はいつ? 『A GHOST STORY』デヴィッド・ロウリー監督に聞く


 今世紀に入って見られるようになった良作の多くに共通するのは、ストーリーより、モチーフが醸し出す世界観cosmologyにポイントがあることです。物語を追うと起承転結が見えづらく、どこでカタルシスを得られるのか判らなくなりがちです。ちなみに世界観とは「<世界>(あらゆる全体)はそもそもこうなっている」という存在論的ontologicalな理解です(暫く<世界>を世界と記す)。


 世界観は寓意allegoryとしてしか示せません。ベンヤミンが定式化したように象徴symbolは規定可能ですが、寓意allegoryは規定不能です。世界観が全体性に関わるからです。ハイデガーによれば全ての存在は世界の中にあります。でも世界はあらゆる全体だから世界の中にはない。世界の中にないから世界を指示できない。その意味で世界は存在しない(マルクス・ガブリエル)。


 象徴とは記号と(見えない)対象の結び付き(symbolon、ギリシャ語で割符)。見えなくても割符の相手方は決まっている(規定可能)。ところが世界はあらゆる全体なので指示できません(規定不能)。寓意は「砕け散った瓦礫の中の一瞬の星座」(ベンヤミン)として示される他ありません。でも一瞬後には見えたと思った星座が見えなくなる…。記号でのパラフレーズ不能性を指し示す物言いです。


 象徴は世界の中にある存在を指示します。寓意は世界(あらゆる全体)を指示します。でも世界は世界の中にないので存在しない。存在しないものを指示できません。その意味で世界は存在しない形で存在します。だから寓意も、指示しない形で指示します。物語の享受が、世界の中の存在を追う営みなのに対し、寓意の享受は、存在しない形で存在する世界がふと訪れる奇蹟の瞬間です。


 ハイデガーよりも少し年長で、グノーシズム研究から東洋研究にシフトし、エゾテリズム(秘教)研究者として名を成したルネ・ゲノンは、自らのアラビア名を「一者の僕」としたように、存在しない形で存在する世界(あらゆる全体)の特徴を「一者性」と呼びました。これはただ一つしかないというよりむしろ「数えられない一つ」という意味です。固有名の単一性(スピノザ等)にも関連します。


 別言すると、存在には輪郭がありますが、世界には輪郭がないので、世界は存在しません。象徴の対象は輪郭があって規定可能ですが、寓意の対象は輪郭がないから規定不能です。でも、象徴の営みが規定可能なのは、文脈が規定可能だからで、文脈が規定可能なのは、それを規定可能にする文脈があるから…。こうして遡れば必ず文脈の全体性という規定不能性に突き当たります。


 だから、規定可能だと思い込んで言葉の営みをする僕らも、少し反省すれば規定可能性が怪しくなります。例えば僕らは、言葉の用法(指示対象を含めて)が「皆」と同じだとの前提で言葉を使いますが、言葉の用法が同じであるか否かは確かめられません(クリプキ)。同様、僕らは目の前の相手が人間だとの前提で遣り取りしますが、外見に拘わらず相手が人間か否かを確かめられません。


 そもそも自分は人間なのか。人間という言葉が何を指すのか。言葉の枠内で少し厳密に思考するだけで、自分の輪郭も人間の輪郭もぼやけます。コミュニケーション可能なものの全体を<社会>と呼び、あらゆる全体である<世界>と区別すると、<社会>は<世界>に絶えず侵入され脅かされています。少し反省するだけで「<社会>は思っていたものと違うのでは…」との感覚に苛まれてしまう。


 でも<世界>は規定不能=指示不能だから、何がどう侵入して<社会>が脅かされているのか言えない。だから僕らは日々もどかしく感じます。でも例えば、いずれ訪れるのが確実な、宇宙の熱力学的死(終焉)について友と語り合えば、友も自分も「何か同じものに同じように侵入されて脅かされている」と思えて一瞬シンクロできたりする。ほどなく日常が戻って「その瞬間」を忘れますが。


 映画を含めたアートの目的は、19世紀の初期ロマン派によると「治らない傷」をつけること。娯楽=リ・クリエーションが、入浴してサッパリして仕事に戻るみたいに<社会>に戻らせるものだとすれば、アートは、本当はいつも<社会>を脅かしている<世界>を、むりやり寓意的に体験させることで、以前と同じようには<社会>を生きられなくさせます。謂わば「その瞬間」を刻み込むのです。


 そうして傷を刻まれた存在=<足萎えのオイディプス>として<社会>を生きることを強いる映画が、二十年程前から目立つようになりました。だから僕は2000年に『サイファ・覚醒せよ』を著した後、それらを扱った映画評を連載し始めたのでした。連載は「オン・ザ・ブリッジ」と題され、副題は「<社会>から<世界>へ」でした。それが2冊の映画本になり、ここでの連載にも繋がりました。


 ここでの連載を纏めた3冊目を1年前に上梓してから映画評を中断しました。この十年、<社会>から<世界>へをモチーフとした作品の多くが全体性を「森」(実在する森に限らない)に託すようになってきましたが、その理由を、1990年代に始まった新しい人類学とそれを出発点とする思想界隈全体の「存在論的転回」や背後にある後期ハイデガー再解釈に「探る」のに時間をかけたかったのです。


 なぜ「探る」のか。技術論的な話をします。2時間の映画に含まれる情報量は限られます。波瀾万丈的カタルシス作品と違い、僕らが普段見ようとしない「<世界>はそもそもそうなっている」という存在論ontologyを、一瞬の訪れとして星座に組み上げる寓意作品は、僕らが<世界>を生きることで蓄積させてしまう「膨大な何か」を触発する形で、映画体験の情報量を膨大に膨らませています。


 僅かな情報量しか含まない映画「作品」が膨大な情報量を含む「体験」を可能にする機制を、ソシュールならぬパースの再興を企てたジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論』(原著1993)が詳しく解説するので再説しませんが、映画「体験」を実際にスクリーン上に見えるものに限りたがる「蓮實重彦氏のエピゴーネン」への学術的反措定の基礎を与えます。でも、今やそれはどうでもよろしい。


 3冊目の映画本『正義から享楽へ』に記したように僕は映画自体にさして関心がないので、「今やどうでもいい」と言いましたが、代わりに僕が強い関心を寄せるのは、僕らが<世界>を生きることで自動的に蓄積する「膨大な何か」です。それが今どんな形を取りつつあるか、その理由はどこにあるか、どんな機制が何を触発するか、映画がその機制をどう利用するか、に興味があるのです。


■<森>の映画の教科書『アンチクライスト』


 <森>の映画の出発点は、人類学的な意味での多視座主義(デ・カストロ)を具体化したテレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』(1999)です。鰐・鳥・先住民・近代人(軍人)の共軛不能な複数の時間を描く多自然主義としても幾度か論じました。今回『ア・ゴースト・ストーリー』を論じる大前提として話したいのが、十年後のラース・フォン・トリアー監督『アンチクライスト』(2009)です。


 これもストーリーが難解だと揶揄されますが、<森>の映画としては最も分かりやすい。冒頭に話した「モチーフが醸し出す世界観」という点で、複数のモチーフが全て単純な二項図式を形作るからです。それが既に題名において「キリスト・対・反キリスト」として示されます。しかもエンドロール冒頭、アンドレイ・タルコフスキーへの献辞においても「規定可能・対・規定不能」として示されます。


 ここには、多くの観客に理解させて誤読を塞ぐための説明的な意図を感じます。そこから推測するに、フォン・トリアーはこの作品を世界観の範型(パラダイム)として提示しています。実際この範型に合点が行けば、数多の監督が「意識せず則っている世界観」を類似(アナロジー)によって分別でき、それらを検討することで「四方域(ハイデガー)に関する今日的直観」を描き出せるでしょう。


 注目すべきはウィレム・デフォー演じるカウンセラーとシャルロット・ゲンズブール演じる妻の関係性の変化です。セックス中に赤子が窓から落ちて死ぬ衝撃のプロローグは気を惹くためのオカズなのでどうでもよろしい。「夫と妻は共にキリスト側にいたのが、妻が徐々に変化してやがては反キリスト側に立ち、夫を反キリスト側に取り込む」というプロセスにこそポイントがあります。


 ちなみにこれからお話しすることは、映画の鑑賞後に分析した結果ではありません。世界観の範型として作品が提示されていることもあり、観客に一定の経験と素養があれば、リアルタイムに「そのようなものとして(=僕がこれからお話しするように)」体験することができます。だから、これから話すことは、映画を見ながらリアルタイムに僕がそのように体験したことについてです。


 物語は単純です。夫妻が性交中、赤子が窓から転落死する[起]。医者がもて余す悲嘆の深さゆえ、セラピストの夫が入院中の妻を帰宅させ施療する[承]。自ら求めて「エデンの森」に滞在した妻が急に変性、嫌悪していた森に同化する[転]。妻に呑み込まれた夫が、殺される寸前(聖痕出現)に妻を殺害、<足萎えのオイディプス>として森から草原に出ると、無数の女達が彼を囲み歩[結]。


 定石通り施術したがる夫は「言葉」の人。施術が効かずに最終的に「エデンの森」に同化を遂げた妻は「言葉の外」の人。でも最初は違います。赤子の葬儀の日に卒倒し悪夢に苛まれる妻に、夫が青い毛布をかけます。伝統のマリア像モチーフ「ピエタ」(ペルジーノ、エル・グレコ、ルーベンス等)。妻が当初「キリストの側」にいたことが示されます(でも後にそうでなかったことも示されます)。


 森がエデンと称されるのは出楽園譚を踏まえた喩です。森が「1.人類がそこから出て来た場所、2.出るべきでなかった場所、3.ゆえに帰るべき場所」に重ねられます。ちなみに今日のカトリック神学では、蛇の唆しも、出楽園後に不完全な言語と道徳を与えられた「神に似姿に過ぎない人」が神にも予測不能な仕方で振る舞うのも、「全能神の意図(全能だから予測不能性も意図可能)」です。


 ここまではユダヤ教とキリスト教に共通します。ここから先はなぜ映画が反キリストを標榜するのかのヒントになる話をします。マグダラのマリアの逸話(罪なき者のみ石を投げよ)や善きサマリア人(戒律と無関係に思わず瀕死の男を助けた被差別民)の喩に見られるように、イエスは、戒律になければ瀕死の男を放置し、戒律にあれば貧窮した娼婦を罵倒する、浅ましき者を批判しました。


 戒律を守りつつ汝らは目で姦淫するとの物言いゆえに、戒律を守る・守らないという行為から何を思うか・思わないかという内面に、イエスが注目点を移したとの説が有力ですが、間違いです。イエスは何より、自発性(損得勘定)より内発性(損得を超える動機)を推奨します。自分だけが救われたいからと、戒律にあれば人を助け、戒律になければ助けないという営みは、利己的で浅ましい。


 マグダラのマリアにおける目で姦淫云々も実はそうです。淫猥な気持ちを抱いているくせに、戒律を守らないと救われないとの理由だけで戒律を守り、数多の事情で戒律を守れない貧窮した者に石を投げるような者が、救われることがあろうか。偶然自分に余裕あって戒律を守れるからといって、貧窮ゆえに体を売らざるを得ない者に石を投げるような輩が、救われることがあろうか。


 かかるイエスの教えを「内面の道徳を浮上させたのだ」と解する人々が、後にキリスト教を道徳化させます。第2バチカン公会議(1962)が否定した大きな誤りです。イエスが否定しているのはif-thenの条件プログラムです。「救われたいなら戒律を守れ」も「救われたいなら内面を正しく」も同じで、「ちゃんとしていたのだから救え」と救済の為の取引きを神にもちかける涜神行為なのです。


 イエスが推奨するのは「他者を救いたいから救う営み」=目的プログラム。条件プログラムは「道具的instrumental」。目的プログラムは「自体的consumatory」。こう整理すると分かる通り、ギリシャ語で書かれていた福音書が伝える図式は、初期ギリシャ的です。初期ギリシャは「災難が起きぬように」「幸いがあるように」と神に這いつくばって祈る営みを「エジプト的」と呼び嘲りました。


 理由は三つ。第一に、ギリシャ神話やホメロス叙事詩やギリシャ悲劇が伝える通り<世界>はそもそもデタラメ(規定不能)で、条件プログラムは通じない。第二に、災難の理由を神の意志に帰属させて神をなだめる営みは、自立ならぬ依存で浅ましい。第三に、それが報われようが報われまいが正しい行為(仲間のための自己犠牲)をなす者こそ、真の英雄。福音書にも流れている思考です。


 でも、ユダヤ教が行為に関わる条件プログラム(戒律)を重視したのに対してキリスト教は内面に関わる条件プログラム(道徳)を重視したとの誤解から、「行為の統制は王の世俗の営みに委ね、内面の統制は教皇の聖なる営みに委ねる」というトマス・アキナス的な双剣論が、西ローマ帝国の範域で一般化して、人が自力で世俗社会を作る営みをキリスト教が正当化したという話になりました。


 それがイエスの教説だったか否かを横に置けば、それが世に言うキリスト教。『アンチクライスト』は題名からして、「世に言うキリスト教」への反措定。ならば、人に社会を作る資格などなく、だから現に社会(大規模定住)はいつもクソ社会で矛盾(マルクス)が消えることはなく、人は「法の奴隷」「言葉の自動機械」というクズへと頽落して本来性(ハイデガー)を見失う──となるはずです。


■この社会が根本的に間違っている理由とは


そして実際にそうなります。しかし十年前のこの作品の凄さは、「キリスト的/反キリスト的」という古代ギリシャ文献学者ニーチェ以来知られるようになった概念的な図式に、以下の多様な脱概念的な図式をこれでもかと重ね焼きにしたこと。その結果、キリスト教云々を超え、「<世界>はそもそもどうなっているか」という存在論的ontologicalな探求として、一つの高みに達しています。


 男   /女
 草原  /森
 輪郭あり/輪郭なし
 屹立  /癒合
 離散体 /連続体
 光   /闇
 太陽  /月
 農耕  /狩猟
 一神教 /アニムズム
 乾燥  /湿気
 風が吹く/吹かない
 低粘度 /高粘度
 北(峻厳) /南(雑然)
 一つの声/複数の声
 単一視座/多数視座
 明朗活発/不気味
 言葉以降/言葉以前
 規定可能/規定不能
 計算可能/計算不能
 合理  /不合理(の合理)
 言うこと/示すこと
 なすこと/あること
 能動受動/中動態
 秩序  /カオス
 法   /法外
 <社会> /<世界>(<社会>の外)
 社会常識/変態性愛
 間接性 /直接性
 支配の性/溶融の性
 生への性/死への性
 出生後 /出生時
 胎外  /胎内
 敗北  /勝利
 施術者 /クライアント


 夫が象徴するのが左辺、妻が象徴するのが右辺。夫が施術者(セラピスト)という設定が絶妙です。日本でも1996年頃から自傷ブーム・アダルトチルドレンブーム・エヴァンゲリオンブーム、要は「生きづらい系」ブームになります。生きづらいのは何のせい? 自分のせいだと理解すればセラピー(施療)が要ります。そこから癒し系がブームになりますが、そこに見られる思考停止には仰天します。


 生きづらさは人のせいなのか。社会のせいではないのか。社会がクソだから人が生きづらいのではないのか。治されるべきは人ではなく社会ではないのか。人を治すことでクソ社会を温存するのではないか。クソ社会を何の問題もなく生きられる人こそクズではないのか。実際監督は2007年から鬱になり、鬱に苦しみながら映画制作をしました。作品には社会への呪詛が充ちています。


 「それもあって」映画は、左辺を嫌悪、右辺を賞揚します。治療を施す夫に対し、妻は「エデンの森」に行きたがります。妻は草原に立つのを恐がり、森の暗闇を好みます。森では雛が蟻塚に落ちて鷹に捕食されます。母鹿が膣から濡れた子鹿を覗かせたまま歩きます。狐が突如「カオスが支配する」と叫びます。光量が低い森でカメラは対象の輪郭を捉えられません。全てがヌルヌルしています。


 映画は「妻=右辺」に軍配を挙げる。実は僕らはその意味を2016年に突きつけられています。ゆえに監督の個人的嗜好として片付けられません。トランプ大統領勝利の直接的原因は中絶問題でした。オバマの大統領選では白人福音派の73%がオバマに投票したのに、今回は81%がトランプに投票しました。たった一つの理由が、第3回目の大統領候補討論会の主題となった「中絶」でした。


 日本では僕しか論じませんでしたが、アメリカでは議論が沸騰しました。多くの州で出産直前まで中絶可能なアメリカですが、ヒラリーは一般女性らと会合する番組で、お腹にいるか生まれたかで赤子に人権があるか否かを決めることに違和感を示した女性に、出産寸前でも胎児には権利はないと断言。宗派を問わずキリスト教徒の間で「リベラルには心がない」と大炎上したのでした。


 本当は出産寸前か否かは問題ではない。どこかで区切って「以降は人だが、以前は人ではない」と線引きする営みが問題です。リベラルがどの範囲を仲間と認めてシェアや再配分を賞揚するのかという線引きが絶えず問題になるのと同じです。だからブレグジットでもトランプ誕生でもリベラル政党支持者の多くが排外主義に加担しました。そこでのリベラルは「言葉の自動機械」というクズ。


 本当はリベラルか否かの問題でさえない。誰が仲間かという共通感覚を欠いた人々が大規模定住を営む文明における「普遍的問題」です。胎内スキャンを見れば出産4カ月前で顔の個性が見え、1カ月前には姿勢から仕草まで誕生後と遜色ない。生まれていないなら権利はないという物言いのクズぶり分かります。だから僕は特別養子縁組制度の普及を巡るイベントに関与してきたのです。


 古くからの森の思考は「普遍的問題」を回避させます。アマゾン先住民ヤノマミ族は古い日本と同じ「子がえし」の営みを今もします。精霊クラウドから訪れた赤子を母が抱けば精霊から人になり、抱かなければ白蟻の巣に封入して燃やして精霊クラウドに返す営みです。そこに存在するコスモロジー(世界観)とそれに相即した連続体感覚が「人か物か」という残酷な裁断を退ける働きをします。


 監督による「エデンの森」への帰還の賞揚が個人的嗜好の問題を超えると述べた所以を話しましたが、別の逸話で補完します。今年9月22日に放映されたNHKドキュメンタリー番組『SWITCHインタビュー 達人達(たち)』が俳優・井浦新とサバイバル登山家・服部文祥をフィーチャーしましたが、そこで服部が狩猟における「獲物(鹿など)へのなりきり」を切口に、主体や身体の概念、総じて境界の概念に疑問を呈します。


 服部は「獲物へのなりきり」を語りつつ、獲物もまた「人へのなりきり」を示すと言います。猟師の武器が刃物か矢か銃器によって鹿は安全距離を変えますが、これを服部は獲物によって「なりきられている」と体験します。この対称性ゆえに、獣を殺して喰う人間が獣に殺されて喰われるのは当然。獣を自在に殺していいのに人を殺しちゃいけないという線引きも理解不能だと彼は言います。


 映画を最後まで見通すと、妻が左右の靴を逆に履かせて幼児の足をわざと変形させた事実、性交中の妻が赤子の墜落の一部始終を見て知っていた事実が示されます。むろん「妻は子を愛していたが愛していなかった」という両義性の隠喩。直接的すぎて強烈です。この両義性は更に、妻が<社会>つまり人倫を生きながら<世界>をも生きる服部文祥的身体である事実の喩にもなっています。


■根本的に間違った社会をどう生きるべきか


 夫の世界から妻の世界へ。左辺から右辺へ。映画が描き出す動きは、元の場所に還るという意味で「エデンの森」の回復です。人にクソ社会を作らせたキリスト教を払拭する「反キリスト」の運動です。そこにインセストやニンフォマニアといったシャルロット・ゲンズブールのパブリックイメージや『最後の誘惑』でイエスを演じたウィレム・デフォーのパブリックイメージが利用されます。


 映画が描き出す動きゆえに、夫は妻に殺されて終わると想像されます。実際、逆十字に横たわる夫に聖痕が現れます。でも最後には逆に妻が夫に殺されます。しかし妻の敗北ではない。妻によって傷を刻まれた夫は以前のようには<社会>を生きられません。妻によって足にボルトで砥石を括り付けられた際に骨を砕かれた夫は、<足萎えのオイディプス>として「森から草原に」出て来るのです。


 この感動的なラストシーンでは<足萎えのオイディプス>の周りに無数の「女達」が群れ集います。そこで例の二項図式が再確認されます。男/女、草原/森、輪郭あり/輪郭なし、屹立/癒合、離散体/連続体、光/闇。<足萎えのオイディプス>は恐らく、クソ社会の中で犠牲になった者達を背負いながら、これからを生きていくことだろう……観客にそう予想させた処で映画が終ります。


 これはもちろん、<足萎えのオイディプス>として<社会>を生きてゆけ、治らない傷を隠して「なりすまし」ながら<社会>を生きていけ、という推奨でもあります。この推奨が現実に有効であり得る程度に応じて、『アンチクライスト』はアート=治らない傷を付ける営みとして、成功したことになります。その意味で『アンチクライスト』はアートとは何かに自己言及する形式も備えています。


 この映画を教科書にすると世紀末以来の様々な<森>の映画を論じやすくなります。<森>は規定不能な全体性の喩です。『ア・ゴースト・ストーリー』も<森>の映画です。次回は<森>の映画の最高傑作であるアピチャッポン(アピチャートポーン)・ウィーラセタクン監督の『トロピカル・マラディ』(2004年)に触れて更に準備を整えてから、『ア・ゴースト・ストーリー』を味わいましょう。(宮台真司)