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韓国で社会現象『82年生まれ、キム・ジヨン』邦訳刊行。女性から絶大な共感

2018年12月14日 13:41  CINRA.NET

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チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』表紙
■韓国で社会現象とも言える広がりを見せる2016年発表の小説

<キム・ジヨン氏、三十三歳。三年前に結婚し、昨年、女の子を出産した。>

チョ・ナムジュの小説『82年生まれ、キム・ジヨン』はこんな文章から始まる。

主人公であるキム・ジヨンは一児の母で、IT関連の中堅企業に勤める夫と3人でソウルのはずれにあるマンションに住んでいる。ある日を境に、彼女は突然自分の母親や友人の人格が憑依したように振る舞い始める。いったい何が彼女の精神に歪みをもたらしたのか――。本書はキム・ジヨンの生まれた1982年からその半生を振り返りながら、彼女が幼少期から大人になるまでに経験してきた様々な理不尽や不平等、女性であるがゆえの困難を克明に描き出す。

『82年生まれ、キム・ジヨン』は2016年に韓国で刊行されると、多くの女性の共感を呼んで100万部を超えるベストセラーとなった。すでに台湾でもベストセラーになり、ベトナム、イギリス、イタリア、フランス、スペインなど16か国での翻訳が決定しているという。

そんな注目の一冊が邦訳され、12月8日に筑摩書房から刊行された。CINRA.NETでは日本版の刊行に際して翻訳を手掛けた斎藤真理子氏からコメントをいただいた。その言葉と共に本書の魅力や、1つの小説が韓国で社会現象とも言える広がりを見せた背景を紐解いてみたい。

■女性が社会で直面する様々な困難や差別を、精神科医のカルテという体裁で描き出す

本書はキム・ジヨンを診察する精神科医のカルテという体裁で彼女の半生を回顧していく構成だ。その中で彼女が出会う社会の困難や差別の例を挙げてみよう。

小学校で嫌がらせのようなちょっかいを出してくる男子生徒の行動を担任教師が好意の印だと諭す、予備校の同級生にストーカーまがいのことをされてもスカートが短い、立ち振る舞いを直せなどと父親に叱られる、就職活動でも男子生徒が優遇され、会社に入ったら女性社員は結婚・出産で辞めていくからと大きな仕事を任されない、出産を機に仕事を辞めざるを得ない……残念ながら韓国だけではなく日本にもそのまま当てはまる事象ばかりだ。

「キム・ジヨン」という名前は韓国における1982年生まれに最も多い名前だそうだ。本書を読んで多くの女性がキム・ジヨンというヒロインに自分を重ね合わせたからこそ、共感の輪を広げたのだろう。日本版は刊行から2日して重版が決定、4日目にして3版重版が決定したというから、日本でもその輪が広がっていきそうだ。

■著者はドキュメンタリー番組の放送作家の経歴を持つ1978年生まれの女性作家

著者のチョ・ナムジュは、主人公のキム・ジヨンよりも少し上の1978年生まれ。放送作家として社会派ドキュメンタリーなどの番組を10年間担当していた経歴があり、それゆえか本書もフィクションながらキム・ジヨンという人物のドキュメントを見ているかのような質感がある。

またキム・ジヨンの人生を時系列で追っていくとともにその時々の実際の韓国社会や法制などの状況が具体的な数字と共に差し込まれているのもドキュメンタリーを手掛けていた著者ならではと感じさせる。

斎藤氏は翻訳にあたって気を配った点について以下のように語る。

<医師のカルテという体裁をとっていますから、基本的には淡々と事実を並べる文体です。その分、会話や、主人公の独白を生き生きと再現するように気をつけました。また、キム・ジヨンは優等生でもなくアウトローでもなく、読者が自分を投影しやすいように造形されたヒロインだと思うので、その特徴を損なわないよう、ニュートラルで親しみやすい感じを心がけたところもあります。>

これまでも多くの韓国文学の翻訳を手が掛けてきた斎藤氏だが、本書を初めに読んだ時、韓国でここまで話題になるとは予想しなかったという。

<非常にリーダブルで、小説であると同時に明確に啓蒙書の役割を担っているところが面白いと思いました。私が読んだころはまだ30万部突破ぐらいだったと思います。30万部売れたということだけでも社会現象として注目すべきだと思ったのですが、100万部まで行くとは予想していませんでした。著者のチョ・ナムジュさんもそうだったようです。>

■国会議員が300冊購入、BTSや少女時代のメンバーも言及。広がりの背景には1つの殺人事件

著者自身の予想も超えて韓国で社会現象ともなった本書だが、作品そのものの力に加えて、刊行当時の韓国社会の空気がその広がりを後押しした。

斎藤氏によれば、著者は2つの文学賞の受賞歴がある作家だが知名度は決して高くなく、本書も出版社への持ち込み企画だった。2016年10月の出版当初は読者の口コミで広がっていったのだという。その背景には同年5月に起きた「江南通り魔殺人事件」がある。

この事件はソウルの繁華街にある江南駅付近の公衆トイレで若い女性が見ず知らずの男に殺害されるという痛ましい事件だが、犯人が動機として「普段から女性に無視されていたから」と語ったことから女性嫌悪による犯行だとして女性たちが連帯した。そんな空気の中で同時期に発表されたこの本は受け入れられたのだ(江南通り魔殺人事件を含む本書を巡る韓国社会の背景については、巻末の伊東順子氏による解説に詳しい)。

その後も男性の国会議員が本書を300冊買い取って全議員に送ったり、韓国の#MeToo運動の火付け役となった検察庁での告発を行なった女性検事が本書に言及したことも手伝い裾野が広がっていった。現在は企業の人権セミナーなどでも本書が多く用いられているという。

またKPOPアイドルをはじめとするセレブリティーの推薦でもさらに注目を呼んだ。少女時代のスヨンは『90年生まれチェ・スヨン』と題した自身のリアリティー番組で「読んだ後、何でもないと思っていたことが思い浮かんだ。女性という理由で受けてきた不平等なことが思い出され、急襲を受けた気分だった」と本書に言及。現在世界的な人気を獲得しているボーイズグループBTSのリーダー・RMも生配信コンテンツの中で「示唆するところが格別で、印象深かった」と述べた。さらに本書はすでにキム・ドヨン監督による映画化も決定しており、チョン・ユミとコン・ユという人気俳優の2人がキム・ジヨンとその夫役を演じると伝えられている。

一方でガールズグループRed Velvetのメンバー・アイリーンが本書を読んだと発言したところ、男性ファンが「アイリーンがフェミニスト宣言をした」として彼女のグッズを燃やしたりする様子をインターネットに投稿したり、チョン・ユミも映画の主演を受けたことでバッシングされるなどの事態にも発展しているが、そうした事態が起きるたびにまた本書が話題になり売れているのだそうだ。

■いま日本で刊行されることの意義。「啓蒙書としても役割も強い」

『82年生まれ、キム・ジヨン』で描かれているのは、女性が社会生活を送るうえで当たり前に経験するであろう困難の数々であり、精神のバランスを崩したキム・ジヨンは性差による数々の不平等と差別が存在する社会構造の犠牲者ともいえる。日本でも医大の女性受験者への減点など、女性であるというだけでスタートラインにも立たせてもらえないという驚くべき事態が2018年現在にも発覚している。いま本書が日本で刊行されることの意義について斎藤氏に伺った。

<先にも述べましたが、本書は小説ではありますが、啓蒙書としての役割を強く担っています。この本が日本で出るにあたり、韓国の人から「日本でキム・ジヨンのように有名なフェミニズムの『最初の一歩』としてわかりやすい入門書は何ですか」と聞かれたので、知人や出版関係者たちに尋ねてみると、「思い当たらない」「チママンダ・ンゴズィ・アディーチェやロクサーヌ・ゲイなんかの本でしょうね」と答える人が多かったのです。

私自身、大学生のころに女性問題の研究会をやっていましたが、当時より今の方がずっと文献は増えているけれど、「初めの一冊」として勧められる汎用性の高い本というと、国内著者の本が思い当たりません。高校生ぐらいから読めるわかりやすい入門書、また女性も男性も読める汎用性の高い本という意味で本書は非常に大きな意味があると思います。家族のあり方が似ているアジアからの発信なので、いっそう親近感があるかもしれません。ただ、入門書であって処方箋が書いてあるわけではありませんので、この本はきっかけ作りに役立つという位置付けです。これを読んで、自分の思いを言葉にしてみたり、お母さんやお祖母さんの人生について改めて考えてみたり、そのことを周囲の人と話してみることが第一歩になるのではないでしょうか。>

斎藤氏が言うようにこの本は処方箋ではない。キム・ジヨンが経験した苦難に対して、答えや救いは提供されない。しかし韓国の女性たちの声なき声を、キム・ジヨンという女性の「声」として体現している。

本書の巻末には著者から日本の読者へのメッセージが収められている。全文は特設サイトでも公開されているが、その文章はこう締めくくられている。

<日本の読者の方々にとっても『82年生まれ、キム・ジヨン』が、自分をとりまく社会の構造や慣習を振り返り、声を上げるきっかけになってくれればと願っています。あなたの声を待っています。>

本書を読み、どんな「声」をどのような形で上げるのか。それは私たち読者一人ひとりに委ねられている。

■「韓国文学界はフェミニズムの盛り上がりと切り離せない」。日本語で読める近刊も紹介

最後に現在の韓国文学界と本国で盛り上がりを見せるフェミニズム運動との関わりについて伺った。

晶文社の「韓国文学のオクリモノ」シリーズやクオン社の「新しい韓国の文学」シリーズをはじめ、日本語で読むことのできる韓国の小説が多く刊行され、いま日本でも韓国文学への関心が高まっている。その中には斎藤氏の翻訳による作品も多く含まれる。斎藤氏は「文学界は今、フェミニズムの盛り上がりと切り離せない状況になっています」と語る。

<純文学のみならず、サスペンスなどの分野でもMeTooを盛り込んだエンターテイメント作品が書かれ、一言で言って、現在の韓国の文学界はジェンダー意識、フェミニズムに強く牽引されているといって良いと思います。先に挙げた「江南駅通り魔殺人事件」以後、この問題に無関心でいられる女性作家はいないということでしょうし、読者の反応も非常にビビッドなものがあると思います。

ちなみに今年の著名な文学賞は女性作家が独占したといわれており、年末の各紙文化面の記事を見ても、文壇全体としても女性作家が席巻していることは間違いありません。これは、韓国小説の読者の多くが20~30代女性とされることとも関連があるといわれています。>

そうした状況を反映している、近刊の日本語で読める作品についても教えてもらった。

<『娘について』(キム・へジン著、古川綾子訳、亜紀書房、12月19日刊行)は、娘がレズビアンだと知って衝撃を受ける母親の姿を通して女性の生き方や老いの問題、共生という問題を掘り下げた読み応えのある小説です。

来年2月には「フェミニズム小説集」と銘打って出版された7人の女性作家のアンソロジー『ヒョンナムオッパへ』(斎藤真理子訳、白水社)が出ますが、この本の筆頭の作品『ヒョンナムオッパへ』をチョ・ナムジュさんが書いています。フェミニズムを商売にしていると揶揄もされるようですが、商売になるという現状自体、注目すべきかもしれません。

また、ハン・ガン、ファン・ジョンウン、チョン・セラン、キム・エランなど、日本でも読者が増えつつある実力派の女性作家たちの作品も、いずれもフェミニズムを色濃く内在化させていると言っていいと思います(『フィフティ・ピープル』(チョン・セラン著、斎藤訳、亜紀書房)には、日常生活の中のフェミニズムが非常に自然に描かれています。

今月日本でも翻訳が出る『私たちにはことばが必要だ――フェミニストは黙らない』(イ・ミンギョン著、すんみ・小山内園子訳、タバブックス)は、差別問題で苦しむ女性たちのための日常会話のマニュアル本で、わかりやすい入門書です。>

『82年生まれ、キム・ジヨン』は筑摩書房から現在発売中。本書を読んで韓国文学、韓国のフェミニズム本に興味を持った人は上述の作品もぜひ手に取ってみてほしい。