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“狂気”を孕んだウィリアム・フリードキンの傑作 松江哲明の『恐怖の報酬』評

2018年12月08日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『エクソシスト』『フレンチ・コネクション』を手がけた監督として知られれるウィリアム・フリードキンですが、自身の“最高傑作”と謳っていたのが、『恐怖の報酬』でした。僕は劇場で観ることができず、VHSで観てはいたのですが、最高傑作か、と問われると……と思っていたんです。批評でも決して高評価されていた作品ではなかったと思います。ひとえにフリードキンのキャリアが『恐怖の報酬』以後、どんどん尻すぼみになってしまったことも要因のひとつかもしれません。90年代の迷走している時期はありますが、近作『キラー・スナイパー』(劇場未公開・DVD)は未公開なのがもったいないほどの傑作ですし、『フレンチ・コネクション』『L.A.大捜査線/狼たちの街』など何度も見返している作品もあり、大好きな監督の1人です。


 フリードキンは、『エクソシスト』のディレクターズカット版(ディクレターズカットとはあくまで邦題で、作品を観る限りは『The Exorcist: The Version You’ve Never Seen』が正しいと思いますが)を作成したり、『フレンチ・コネクション』はソフト化するときに別作品かと思えるほどにカラコレを調整し直したり(当然、不評です)、旧作に対するこだわりが非常に強い。だから、『恐怖の報酬』もどんな形に仕上がっているのかと思い期待はしていました。でも、スクリーンで観たら……「今まで気付かずにすいません!」と謝りたくなるほど、とんでもない作品でした。


 本作は殺し屋、テロリスト、多額の借金を背負った元銀行家、マフィアといった国籍も背景もバラバラの男たち4人が、石油会社からの多額の報酬と引き換えに、少しの衝撃で大爆発を起こすニトログリセリンをトラックで送り届ける、という物語です。前半部は、運び屋となる4人が、どんな経緯で出発の地である南米に訪れることになったのかを、当時のフリードキンが得意とするドキュメンタリータッチで映し出していきます。この前半部が今の映画の基準からするとめちゃくちゃ長いのですが、そこがいいんです。男たちが追い詰められていく、どうにもならない現実が丹念に描かれているからこそ、死と隣り合わせの危険なミッションが描かれる後半が異様な雰囲気を纏うんです。そして、それぞれの背景が後半の伏線となっていきます。この時点では彼らは出会っていないのですが、そこに気づいているのはこの前半の物語を鑑賞している観客だけなのです。


 彼らが運び屋となる直前に、トラックの整備シーンが入ります。整備している様をモンタージュで見せていくのですが、後に『死霊のはらわた』でサム・ライミが、最近では『ワイルド・スピード』シリーズのジェームズ・ワン(『アクアマン』でも同様のシーンがありました)が得意とするように、音と映像の細かいカッティングで映画のテンションをこれでもかと上げていく。その後も今回の上映のポスターでも使われている暴風雨の中の吊橋移動をはじめ、霧の中から登場するシーンなど、まるでトラックが生き物であるかのように映し出していきます。一連のシーンはVHSでも何度も繰り返し観ていましたが、大きなスクリーンと場内を包み込むような音響で観るとまた別格でした。


 本作はフランス映画史に残るアンリ=ジョルジュ・クルーゾーの同名タイトルのリメイクでもあります。私はサスペンスとしての見せ方で言えばクルーゾー版の方が上だと思います。でも、フリードキン版の方が確実に“狂気”を孕んでいる。クルーゾー版がオンボロのトラックで少しの衝撃で爆発するニトログリセリンを運ぶ狂気を娯楽として楽しむことができるのに対し、フリードキン版は映画の中に吸い込まれていくような、観客自身が登場人物たちと同じ恐怖感を味わうような作りになっています。私はどちらもTVモニターで最初に観ましたが、クルーゾー版の方が面白いと感じたのはそこに理由があるかもしれません。しかし大きなスクリーンで非現実の世界に誘ってくれるのは間違いなくフリードキン版だと思います。ドキュメンタリータッチの、ミニチュアも一切使わず、カメラの前で起こった現実だけを記録しているはずなのに「ここではないどこか」に連れて行かれるのです。その違いにも今回の上映がなければ気づけませんでした。


 フリードキン作品の一連のテーマとして、“継承”というものがあります。ある目的のために集まった人間のうち、途中で誰かが死を迎える(消える)。その想いを引き継ぎ、登場人物が別の人間になっていく。『エクソシスト』『フレンチ・コネクション』『L.A.大捜査線』がまさにそんな作品です。しかも、その継承というのは成長や成功といった分かりやすい形のラストに進むためのものではなく、文字通り“一線を超える”という形で作用しているところにフリードキン作品の特徴があると思います。『恐怖の報酬』もバラバラだった4人の目的が、試練をくぐり抜けようやくゴールに到達……というところで非情な現実を突きつける。あのラストカットのスマートさ、突き放し具合は、プロデューサー主導の“失敗しない映画”が求められる現在では、なかなかできないことだと思います。しかし、印象的なフリードキン作品のどれもが、ロングショットで終わっていました。


 『恐怖の報酬』が公開された1977年は、『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』が公開された年です。『ジョーズ』のスティーブン・スピルバーグ、『スター・ウォーズ』のジョージ・ルーカスの登場から、ハリウッド映画は娯楽作へと突き進んでいきます。私はスピルバーグもルーカスの作品も大好きですが、彼らではなくフリードキンのような作家がまだ受け入れられていたら、映画はまた違った進化をしたのではないかと、今回の『恐怖の報酬』を観て考えました。映画が観客がいて成り立つものである以上、作家の思いだけでは続けることはできません。スピルバーグたちが選ばれたのは必然だったと思いますが、その結果が現在のユニバース化したハリウッド映画にも繋がっていると思います。作家の欲望よりも、観客のそれが優先されていったのではないでしょうか。そこがハリウッド映画の凄さであり、その枠に収まらない作品も生まれていくのですが、フリードキンが本作で行ったような作り方はもう出来なかったし、今でも不可能でしょう(もしかしたら中国ではそんな映画が生まれるのでは、と期待しているのですが)。


 改めて『恐怖の報酬』のような映画を観ると、「お前らそんなおもちゃ(映画)で楽しんでる場合じゃない、これを観ろ!」と怒鳴られているかのように感じますね。マイケル・チミノの『天国の門』、フランシス・フォード・コッポラの『地獄の黙示録』のリバイバル上映が多くの観客を集めたのも、現在の“失敗しない映画”とは真逆の溢れんばかりのエネルギーがあったからだと思います。そして今、上映される意味もそんなところにあるんじゃないでしょうか。(松江哲明)