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ステージ上のフレディは、楽しい暴君だった 『ボヘミアン・ラプソディ』描くクイーンの核心

2018年12月01日 15:12  リアルサウンド

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 映画『ボヘミアン・ラプソディ』をIMAXで観て、応援上映へ行き、11月24日のフレディ・マーキュリーの命日にもう1回応援上映で合唱、足踏み、手拍子をして思った。やっぱり、似ている。メンバー役4人は見た目を本物に寄せただけではなく、喋りかたやしぐさなど憑かれたみたいになりきっている。


(関連:映画『ボヘミアン・ラプソディ』だけでは語り尽くせない、クイーンというバンドの功績と足跡


 映画は、クイーン結成からキャリアのハイライトとなったチャリティー公演『ライブ・エイド』までを描く。とはいえ、実際のエピソードを取捨選択するだけでなく、時系列、周辺人物の設定を改変するなど脚色している。制作にかかわったクイーンのブライアン・メイが、公式本『ボヘミアン・ラプソディ オフィシャル・ブック』に寄せた以下の序文が、映画の性格を伝えている。


「『ボヘミアン・ラプソディ』のような映画は、ドキュメンタリーではなく、象徴的な真実を正確に描こうとする、いわば絵画や歴史小説のような作品だと言える。」


 ブライアン・シンガー監督は、フレディとクイーンがどのように形作られたか、核心を「象徴的」にとらえている。だから、ただのものまねでなく、本質を描いた物語だと感じられる。核心とは、出自や性的指向でマイノリティだったフレディは個性的なフロントマンだったが、クイーンはワンマンバンドではなかったことだといえる。それについて、映画が触れなかった曲や出来事にも触れつつ語ってみたい。


 フレディの父母は、パールシー(ゾロアスター教徒のペルシャ系インド人)だった。親が仕事でタンザニアにいた時、彼は生まれた。インドで少年時代を送った後、タンザニアに戻ったが、革命が起こったためイギリスに移住する。そして、ファルーク・バルサラだった男は、ブライアン・メイ、ロジャー・テイラー、ジョン・ディーコンとクイーンを結成し、フレディ・マーキュリーに変身した。


 彼は女性と交際した時期もあったが、やがてゲイだと自覚する。だが、移民の出自や性的指向について積極的に話すことはなかった。HIV感染の公表も1991年の死の直前だった。有名人なのだからカミングアウトして病気の啓蒙や反差別の姿勢をとるべきだったと、批判する人もあった。社会運動家が旗振り役を求める類の批判だが、余計なお世話だし、自分の人生は本人が選ぶべきものだろう。


 フレディとブライアンの共作で飢餓や侵略を憂う「Is This The World We Created…? 悲しき世界」、ブライアン作で核戦争の不安を歌った「Hammer To Fall」など、クイーンにも社会的メッセージを持った曲はあった。だが、社会的主張より娯楽が本分のバンドだったのだ。「Let Me Entertain You」(楽しませてあげよう)、「The Show Must Go On」(ショーは続けなければならない)などの曲名が、彼らの選んだ姿勢をあらわしている。


 フレディが、自身のアイデンティティをどう考えたかはわからない。ただ、寂しがり屋で孤独感を抱えていることは、曲やインタビューで明かしていた。「Love Of My Life」のように人恋しさをロマンティックに歌ったバラードを残している。また、ロックに加えてオペラ、ミュージカル、ゴスペル、ファンクなど幅広く興味を持ち、多様な曲を書いた。


 ゾロアスター教徒の家に生まれた彼は、キリスト教の救世主を歌った「Jesus」、中東風のメロディでイスラム教の祈りをイメージした「Mustapha」も発表している。孤独なまま狭い場所に閉じこもるのでなく、出自に関係なく、様々なタイプの音楽を通していろいろな世界を生きてみたかった。彼の活動履歴からは、そんな思いが感じられる。


 フレディがクイーンで一番の作曲家だったのは間違いない。だが、他のメンバーも有名曲を書いている。「We Will Rock You」はブライアン、「Another One Bites The Dust 地獄へ道づれ」はジョン、「Radio Ga Ga」はロジャーの曲だ。浮き沈みを経験しながらもクイーンが長く人気を保てたのは、嗜好の違う作曲者4人がいるから実現できたバラエティ性によるところが大きい。


 「Killer Queen」をヒットさせた頃のクイーンが、1975年の初来日で熱狂的に歓迎されたことは知られている。当時の日本で、彼らは女性たちのアイドルだった。イギリスでは差別される側だったアジア系のフレディが、アジアの日本ではキャーキャー騒がれた。本人は、複雑な感情を抱いたかもしれない。


 クイーンは、1985年にブラジルで初開催されたロックフェス『ロック・イン・リオ』で喝采を浴び、1986年にはハンガリー公演を成功させた。ロック文化が発展途上だった国でも、現地の観客を喜ばせることができた。彼らは、スタジオ録音ではボーカルやギターを多重録音し、緻密にハーモニーを組み立てた。賢かったのは、ライブでそのままを再現しようとしなかったことだ。もともと親しみやすいメロディの曲が多く、それをフレディのカリスマ性で観衆に大合唱させた。ライブでは複雑なハーモニーより、大勢のユニゾンのほうが強い。自分たちにしか生みだせない曲を誰もが歌えるものにしたのが、クイーンの強みだった。


 フレディのワンマンバンドでなかっただけでなく、ライブでは合唱や手拍子を求めて観客も演奏に参加させた。クイーンがキャッチーな曲を書くと同時に、笑いを忘れなかったから可能になったことだろう。「Bohemian Rhapsody」は殺人の罪を犯した男の悲劇を、オペラを意識した曲にしている。だが、クラシックに近づいても堅苦しくならず、驚くほど大袈裟なアレンジで「ビスミラ」、「マグニフィコ」と脈絡不明なのに響きは面白い言葉を連発してくれるから、思わず笑ってしまう。


 映画ではロジャーがいかに自動車好きかを歌った「I’m In Love With My Car」の詞の馬鹿馬鹿しさがギャグにされていたが、「Radio Ga Ga」もガーガー鳴ってるラジオが好きという内容だった。フレディもひたすら自転車に乗りたいと繰り返す「Bicycle Race」を作ったし、同曲のビデオは裸の女性多数が自転車を漕ぐとんでもないものだった。この種の単純さ、悪戯好きなキャラクターも、国境を越える親しみやすさにつながっていた。


 ただ、彼らは時々やりすぎた。他国の人とつながろうと南アフリカへも行ったが、人種隔離政策で非難されていた同国で公演したクイーンはバッシングされた。典型的な悪ふざけだった「I Want To Break Free ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」の女装ビデオは、アメリカで放送禁止になった。これらの逆風が吹き、メンバー間がギクシャクしていた頃、バンドが蘇る契機となったのが『ライブ・エイド』である。ウェンブリー・スタジアムの大合唱と手拍子に彩られた名演だったが、特に圧巻だったのはフレディと観客のコール&レスポンス。「We Will Rock You」のズン・ズン・チャのリズムすらなくフレディの声だけで「エーオ」と歌えば、膨大な人々が「エーオ」と応じる。単純なやりとりが続くだけなのに妙に盛り上がる。しかもそれが衛星放送で世界に生中継されていたのだ。クイーンの歴史のなかでも最高に笑える瞬間だったと思う。


 ステージ上のフレディは、楽しい暴君だった。バンドだけでなく、大勢の観客と一体にならなければ孤独を忘れられない。彼にとって孤独は、音楽にむかう原動力だった。だから、『ライブ・エイド』の映像を観ると楽しいのに、彼の孤独も感じて泣けてくる。『ボヘミアン・ラプソディ』は、そうした孤独をとらえた映画だった。(円堂都司昭)