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『ハード・コア』はなぜ現代社会と重なった? 山田孝之と佐藤健が抱える空虚の正体

2018年12月01日 12:32  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『山田孝之の東京都北区赤羽』(テレビ東京系)、『山田孝之のカンヌ映画祭』(テレビ東京系)などのTV作品で近年注目を浴びた、タイトルに名を冠するほどの存在感を持つ俳優・山田孝之、とぼけた世界観でコアな映画ファンにも愛される山下敦弘監督の「くせ者」コンビ。この、くせ者が新たに挑戦したのが、現代の日本社会に横たわる問題を、下層にとどまる者たちの視点から、ユーモアやファンタジー、セックスやコンプレックスなどを交え痛快に撃ち抜いた映画『ハード・コア』である。


 この二人、どちらも本作の原作となったマンガ作品『ハード・コア 平成地獄ブラザーズ』(作・狩撫麻礼、画・いましろたかし)が愛読書だったという。山田孝之は主演のみならずプロデュースも務め、積年にわたる映画化への夢を叶えている。


 原作マンガが世に出たのは90年代。本作はその一昔前の価値観を振り返り、ノスタルジーを味わう映画……なのかと思いきや、意外にも原作の設定の多くを活かしながら、現代の日本そのものとしか思えない「いま」の感覚にジャストな世界を作り出していた。ここでは、映画『ハード・コア』と現代社会が重なった理由を、作品のテーマを明らかにしながら考察していきたい。


 本作を語るとき、どうしても原作者の狩撫麻礼(かりぶ・まれい)の作風について語らざるを得ない。松田優作監督・主演の『ア・ホーマンス』(1986年)、パク・チャヌク監督やスパイク・リー監督の『オールド・ボーイ』など、映画化されたマンガ原作が複数ある作家で、本作の公開年2018年に死去している。


 狩撫麻礼は、経済格差などの社会問題や文化の問題をテーマとしながら、自身の思想を作品というかたちで熱く表現するタイプの作家だ。読者によっては説教のような暑苦しさを感じて敬遠するかもしれないが、レゲエから考案したペンネームが象徴するように、日本の常識を外部から突き崩すような発想力によって一部の読者を強く啓蒙していくような、カリスマ型の才能を持っていたといえる。


 映画の冒頭でも、原作にアレンジを加えながら、そんな思想性がいきなり活かされる。主人公の権藤右近(山田孝之)が、立ち寄ったカラオケバー。苦みばしった表情を作り、ハードボイルドな雰囲気を醸し出しながら、ずいぶん以前に弟の左近(佐藤健)に入れてもらったボトルからタダ酒を飲んでいると、店内のTVには近年日本でイベント化されているハロウィンに浮かれ、仮装する人々がはしゃいでいる姿が映っている。


「クソが……ッ!」


 思わず口からどす黒い呪詛のような罵倒が飛び出してしまう右近。この象徴的シーンだけで、かなりこのキャラクターの心情や、背景にある思想が理解できてしまう。


 右近が何に憤りを感じているのかを考えてみよう。まず、そこには現代の日本社会が商業的価値観を中心にまわっているということへの強い懐疑がある。そして、基本的には西洋の子どもの行事であるハロウィンを利用して、商売人たちが経済効果を生み出そうとする扇動への嫌悪感。さらにその目論見に何の疑問も持たず、まんまと乗ってしまう若者たちへの失望。結局それがナンパの口実として機能していることなどへの不快感が、彼の中で猛烈な勢いで渦巻いていたはずだ。


 このような右近の心情を説明するには、前提として狩撫麻礼の代表作の一つ『迷走王 ボーダー』を挙げると分かりやすいはずだ。そこで描かれていたのは、バブル真っ只中の日本の社会において、「富を持つ者」と「持たざる者」、「表面的な価値観に踊らされている者」と「その欺瞞に気がついている者」が存在し、その間には目に見えない境界線(ボーダー)があるという見方についてだった。


 カネのためにしか生きていなかったり、「本物」を理解できないような人々を、ボーダーを越えた「あちら側」と呼んで蔑み、たとえカネに恵まれなくとも、自分自身が納得できる生き方を「こちら側」と呼んで、その境界上で起きる葛藤を描き、ドラマを生み出していた。そして、その生き方に理想やロマンを重ねていたのだ。


 しかし、本作、および本作の原作では、そのような価値観にかなり内省が生まれているように感じられる。一般大衆を蔑む主人公・右近は、ごく少数のメンバーによって構成される怪しげな右翼団体に所属し、幹部たちの指示により埋蔵金を探すための穴掘り作業に従事。生活は困窮しているし、もちろん恋人もいない。世間の風潮に背を向け、孤高に生きているつもりの主人公の境遇は、哀しくもかなり滑稽なものとして描かれているのである。そして、ハロウィンなどでチャラチャラしてる男女に激昂したり、ハードボイルドを気取って高踏的に振る舞っているのは、社会の価値観からはじき出されてしまったことに対抗し、みじめさを隠すための防衛手段に過ぎないことまで指摘しさえする。


 ここで気づかされるのは、このような一種の悲劇というのは、いまの日本社会ではごくごくありふれた話であるという事実である。内閣府の調査では、2016年に婚姻率は過去最低を記録し、1970年代前半と比べると半分の水準となっているという。このような結果が出たことには様々な要因が考えられるが、とくに大きいのは就労の問題であろう。完全失業率は回復傾向にあるものの、非正規雇用者の比率は増加し、ブラック企業の問題など労働者にとって厳しい状況が続いている。とくに男性の非正規雇用者は結婚への意欲が低いというデータもある。本作に描かれている問題が身に染みて実感できる観客が多いのは、「いま」この時なのではないだろうか。


 この状況下で、かつて世間一般でいうところの「幸せな家庭」を持つことができる人は限られてきている。そこからあぶれた男性にとって、結婚という制度にはじめから興味などないというようにハードボイルドを気取るということは、世間に向けて最低限の体裁を整える一つの現代的な知恵だといえるかもしれない。その残酷な現実を主人公に直接指摘するのは、商社マンである弟の左近である。左近は右近とは対照的に、世の中の長いものに自ら巻かれ、利益をがむしゃらに追求する、経済的にはとくに不自由のない人物だ。


 では本作はやはり、そんな両極にいる二人の間のボーダーについての話なのかと思っていると、じつは意外な展開が待っている。左近は夜景を眺めながら、職場の女子社員と高層ビルのオフィスでのセックスに励んでいるが、そんな左近も、励んでいる最中にも関わらず何か満たされない表情を浮かべているのだ。


 ここで描かれているのは、何らかのポリシーを持って我慢して生きている者も、自分の利益のみを追求している者も、じつはどちらもある種の空虚を抱えているということであろう。考えてみれば、右近の所属する団体も、結局は埋蔵金を狙っているカネの亡者なのだ。つまり日本社会で特権的な地位や財力を持ってない人間が、何らかの稼ぎを得て生きていく限りは、経済的なシステムを構成する歯車にならざるを得ず、その意味で右近も左近も本質的に境遇は変わらないことが暗示される。本作で起こる様々なギャグやとぼけたドラマは、その空しい現実を気づかせるために進行していくように感じられる。


 そこに救世主のように現れるのが、右近の仲間である牛山(荒川良々)が廃工場で偶然発見した謎のロボットである。「ロボオ」と名付けられたそのロボットは、間抜けな見た目にも関わらず、信じがたいほど高い性能で右近や牛山を助けてくれる。山下敦弘監督映画は、演技者にとぼけたリアクションをさせたり、微妙な間をとることが非常に上手い。本作のロボオも、ロボとしての限られた動きのなかで、十二分に山下映画の役者として機能していたのは驚きである。


 本作は、このロボオの働きによって、一応の納得できるラストへと行き着く。それはロボオの言うところの「最適解」、すなわち日本社会からの脱出である。この結末は確かに妥当といえるものの、あまりにも寂しくないだろうか。それは日本に対するあきらめを意味しているからである。とはいえ、日本社会の価値観のなかで敗北し、脇や底辺に追いやられた者たちが、その構造から逃げ出し、ゲームを降りることで新たな幸せを模索するというのは、一つの前向きな方法であろう。そうなったときに困るのは、固定化された社会システムを維持しようとする、ボーダーの「あちら側」の人間たちであるはずなのだ。


 本作で右翼団体のトップの役を演じたあと、2018年3月に亡くなった、首くくり栲象(たくぞう)に言及しておきたい。彼は18歳からパフォーマンス活動を始め、50歳から自宅で首吊りのパフォーマンスを20年間も続けていた人物である。まさに日本社会の価値観において、異端の中の異端と呼べる存在であったといえるだろう。そんな故・首くくり栲象氏にとって、果たしてこの日本社会は、生きやすい場所であったのだろうか。それを考えることが、『ハード・コア』を考えるということであるはずなのだ。(小野寺系)