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『レッド・デッド・リデンプション2』はなぜ「現代の西部劇」なのか 映画的側面から読み解く

2018年11月26日 17:32  リアルサウンド

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 開拓時代が終わるアメリカの無法者として、荒野を馬で駆け銃を撃ち合うなど、西部劇の主人公になりきって遊べる大ヒットゲーム、待望の続編『レッド・デッド・リデンプション2』。前作からコンセプトやゲームシステムに大きな変更はなく、より複雑で詳細に作り込まれた、ワイルドな西部の世界がまるごと楽しめるのが魅力だ。


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 ここでは、そんな『レッド・デッド・リデンプション2』を、操作性やゲームバランスではなく、「西部劇」としてどうなのかという視点で、映画史やゲームの描写を例に挙げながら、本作のより深い楽しみ方を提案していきたい。


 ゲームを開始するとすぐに始まるのは、強盗計画に失敗した、主人公アーサー・モーガンとギャング団、その妻子たちが、雪山を超えて新天地に逃亡しようと難儀するエピソードである。「西部劇」といえば、多くの人々がイメージするのは、タンブルウィード(草のかたまり)が転がる荒野や、サボテンが散見される砂漠地帯や岩場などの乾いた景色であろう。しかしここでは、いきなりロッキー山脈と思われる雪景色の高地が舞台となり、吹雪や寒さが主人公たちを襲うという、意外性を狙った試みがみられる。


 最近では、クエンティン・タランティーノ監督の映画『ヘイトフル・エイト』(2015年)が、同様の舞台で西部劇の世界を描き、強い印象を残した。このような映画の元祖といえるのは、幌馬車隊が厳しい自然のなか様々な苦難を越えて西部へ西部へと進んでいく、ジェームズ・クルーズ監督のサイレント映画『幌馬車』(1923年)である。


 『幌馬車』は冒頭、このような字幕とともに始まる。「アメリカの血は、開拓者の血である。未踏の自然から輝かしい文明を切り拓いた、獅子の心を持った男たち、そして女たちの血である」…『幌馬車』や、大陸横断鉄道を敷設する『アイアン・ホース』(1924年)など、単なる娯楽映画だと考えられていた西部劇は、やがてアメリカの建国につながっていく「開拓精神」が重ねられることで、力強いダイナミズムやカタルシスが与えられることになった。これこそが、それ以降の西部劇の「核」となる部分となっていく。


 『レッド・デッド・リデンプション』シリーズに描かれる世界のベースにあるのが西部劇映画だということは言うまでもない。本作の冒頭で『幌馬車』で描かれたような厳しい山越えをフィーチャーしているのには、西部劇の根本精神に立ち戻り、新たに一から、本質的に「西部劇」をゲームのなかで作り上げようという、強い意図が感じられるのだ。


 そもそも「西部劇」とは多くの場合、開拓時代のなかで、警察の手が足りず強盗などの犯罪が横行したり、拳銃による決闘などが行われていたアメリカを舞台に描いた映画ジャンルのことだ。アメリカやイタリア映画、TV番組で、ジョン・ウェインやヘンリー・フォンダ、クリント・イーストウッドなどの西部劇スターが生まれ、スーパマンなどの新しいヒーローが現れるまで、アメリカはもちろん日本を含めて、西部の英雄は子どもたちのあこがれの存在だった。


 だがそんな西部劇も、時代とともに姿を消していき、現代で以前のような意味での西部劇映画が作られることはほとんどなくなった。それは、現代のグローバルな価値観のなかでは描かれる思想が時代遅れであり、倫理に反する部分もあまりにも多いからだ。アメリカの歴史をそのまま描いてしまうと、「開拓精神」などと言って胸を張ることができなくなってしまう。『駅馬車』(1939年)などで先住民が野蛮な襲撃者として登場するなど、男女差別や人種差別が激しい描写を、現代の文化のなかでヒーローとして表現したり、カタルシスを発生させることは難しい。『マンディンゴ』(1975年)や『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012年)のように奴隷制度による悪魔的描写や、奴隷制終了後も継続する階級的なシステムの上であぐらをかいていた白人たちを描いた作品は、白人が作り白人が消費してきたアメリカ映画史のなかでは例外的である。


 「開拓」とは、違う言い方をすれば「侵略」や「破壊」となる。アメリカ先住民、奴隷や被差別者としての黒人、そして白人であっても虐げられてきた女性たちからすれば、ヨーロッパから入植してきた白人、そして男性たちは簒奪者であり虐殺者であり搾取者であり差別者であり虐待者なのだ。


 『真昼の決闘』(1952年)や『大いなる西部』(1958年)は、そんな残忍で野蛮な西部の荒れた世界のなかで、比較的現代的な公平性を持っている主人公が孤独な戦いを余儀なくされる、ある意味でディストピア的要素を持った西部劇である。これらの作品は西部劇の世界を否定することで、娯楽映画として成立しているといえよう。そのような時代の流れに対し、あくまで西部劇の世界や開拓精神をおおらかで価値のあるものだと主張し、時代を逆行させるカウンターとして撮られたのが、『真昼の決闘』同様のシチュエーションを異なったアプローチで表現した、ハワード・ホークス監督の『リオ・ブラボー』(1959年)だった。ここでは保守的なジャンルである西部劇にも、リベラルと保守の区分けができることを意味している。


 では、『レッド・デッド・リデンプション2』はどうなのだろうか。それは、本作のメーカーであるロックスター・ゲームスの代表シリーズ『グランド・セフト・オート』を見れば理解できる。この作品は、アメリカの犯罪者の世界を誇張して、偏見あるステレオタイプで悪趣味な描写をプレイヤーに提供している。そしてそんな不謹慎な世界をまるごと俯瞰して笑うことで、暴力や欲望にまみれた社会に皮肉を浴びせるということもできる、二重的な構造になっている。だから『グランド・セフト・オート』は、あるプレイヤーによってはただの「暴力ゲーム」であり、あるプレイヤーにとっては戯画化された暴力への皮肉な批判として機能することになる。


 『レッド・デッド・リデンプション2』の世界では、プレイヤーが操作するアーサーが町や草原などを歩いているだけで、様々なイベントが発生する。銃撃に遭ったり、酒場で乱闘することになったり、娼館でトラブルに巻き込まれたり……。酔っ払った男が馬に蹴られて突然死するのを目撃することもある。さらには黒人奴隷の酸鼻な最期を暗示している部分も見られる。ここでも、プレイヤーは描かれる暴力や野蛮さをそのまま味わうことができるし、そんな様々な暴力が肯定される描写を、「開拓精神」と呼ばれてきたものへの批判として捉えることもできるのだ。このような二重構造を持つことで、あらゆる暴力が存在する「西部劇」が現代的な意味を持つことができる。


 しかし本作はあるキャラクターが宣言する「世界は今日も美しい」という言葉が象徴するように、ハワード・ホークス監督の『赤い河』(1948年)、『リオ・ブラボー』、ジョン・フォード監督の『捜索者』(1956年)同様、それでもなお西部のおおらかさや、大自然のなかでの人間の営みの魅力を肯定しているように見える。


 自由に行動できる広大なオープンワールドのなかで、キャラクターたちの楽しい合唱にひたったり、バルビゾン派の絵画を想起させる詩情に満ちた風景を眺めながら時を過ごし、自身の髭や馬、銃のメンテナンスにひたすら快感を感じることもできる。そして制作者の意図すら超えて、町の入り口付近の地面に刻まれた、圧倒的リアリティによる馬車の轍(わだち)や、馬のひずめの跡を見て、プレイヤーが人生を想うことすら可能なのである。


 このように本作はゲーム作品でありながら、西部劇映画の歴史を一つずつ負い、さらにはその先に行こうとする、真に「現代の西部劇」といえるものになっていると感じられる。だから本作を最大限に楽しもうとするなら、西部劇映画をまず観ることが必要である。そしてこのゲームに懐疑的な西部劇映画のファンもまた、プレイしてみることを強く薦めたい。『レッド・デッド・リデンプション2』は、ゲームファンと映画ファンを媒介するだろう、大きな可能性を持った「西部劇」なのだ。


(小野寺系)