スポーツ庁が2017年からの5年をかけて実施している「スポーツ基本計画」は、「スポーツ参画人口を拡大し、『一億総スポーツ社会』の実現に取り組むこと」を目指しているという。そんな方針を知ってか知らずか、先日のはてな匿名ダイアリーに「体育苦手だったけど社会に出たら全く困らなかった」とのタイトルで投稿があり、注目を集めた。
「学生の頃、とにかく体育の時間がイヤだった」という投稿者。「走るのも球技も体操も、全部苦手」で、マラソン大会はいつも下位。球技は「戦力外」で特に「体操が一番苦手」だったという。理由は「みんなが見てる前で演技させられるから」とのことで、憂鬱な思い出は上げればキリがないようだ。(文:okei)
スポーツが嫌というより「体育にロクな思い出がない」人々
どうせならスポーツ実施組と座学組を選択形式にすればいいのにとか、健康増進が目的なら苦手な人は5分くらいのウォーミングアップだけやればいいとか、とにかく得意も苦手も「みんな一緒に」はナンセンスという考えのようだ。社会人になればサッカーゴールをキメる場面があるでなし、
「運動ができないことで不利益を被るっていうのが学生時代特有の経験だったことがわかる」
との結論に達していた。
これにブックマークは600以上つき、共感の声が相次いだ。運動が嫌というより、「体育にロクな思い出がない」人が多い。
「学校の体育は授業ではなくてハラスメントだから」
「体育の授業のさせ方で、晒し者にしないやり方に変える努力が感じられないからかな。運動嫌いを量産してる」
そう。運動オンチの筆者にも覚えがあるが、常に周回遅れで実力の差を見せつけられる無力感、失敗をさらしものにされる敗北感は、デリケートな思春期に余計な心の傷を残す。コメントには、
「特定のスポーツをルール説明せずに体育の授業でやり出して、『なんでルール知らないんだ!』言われたのマジ理不尽」
という声もある。バスケのトラベリングやサッカーのスローインの足の位置なんて知らないし、野球の外野は球をどこに投げるんだかサッパリだ。それらを、一部の指導者や体育大好きっ子たちは「知ってて当たり前」として押し付けてくることがある。
また、団体競技で「お前さえいなければ」という圧や、頑張っているのに「努力が足りない」と責められることも、ただでさえ運動が苦手な者にとっては、益々嫌いになる原因だ。大人になって体育がないことにホッとして、「あんなのできなくても困らんわ」と思う気持ちはよく分かる。
「苦手なものに折り合いをつける賢さも大事」という声も
一方で、苦手なものでも経験する意義を説く人も多かった。
「子供の頃に苦手なことを一切やらせないのは反対。得手不得手が分かるし、(中略)苦手なものに折り合いをつける賢さって、大事だと思うんだけど」
確かに、苦手だからと避けてばかりでは学びの機会は半減する。
筆者も中学生の頃の「サーブが入れば点が入る」レベルのバレーボール大会を思い出した。あと1点で勝ちという場面でサーブを打つ番になってしまい、クラス中に「あーあ、こいつか……」とガッカリ感が充満した。しかし奇跡的にサーブが決まり、クラスの歓喜の輪に包まれた。のちに先生までもが「まさか入るとは思わなかった」と本音を漏らしていたが、嬉しかったのをよく覚えている。まったく参加しなければ味わえなかった喜びだ。
コメントには、「体育はできなくてもいいけど、適度な運動を習慣づけられる何かが必要。特に中年期以降」といった意見も多い。年齢を重ねるほど、基本的な体力・健康維持のため適度な運動が必要になる。こればかりは体育が苦手でも関係ないことだろう。