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人は銃を手にしたらどうなるのか? 中村文則の原点『銃』を見事に映像化した“怖い”物語

2018年11月22日 12:02  リアルサウンド

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 大学生の西川トオル(村上虹郎)は、夜、雨の降る河原で男の死体のそばにあった拳銃を拾った。自室に持ち帰ったそれは、つかみ心地がよくて手になじんだ。彼は拳銃を磨き、箱に収め、宝物のように大切にする。だが、講義へ出て、悪友と合コンへ行くといった普通の大学生活を送るなかで、次第に拳銃のことばかり考えるようになる。トオルが、人間を相手に拳銃を撃つ時は来るのだろうか。


参考:村上虹郎、笑顔の奥底にある演技の凄み 20歳の夏を切り取った『銃』は最重要な一作に


 武正晴監督の『銃』は、2002年に第34回新潮新人賞を受賞して中村文則のデビュー作となった同名中編小説のかなり忠実な映画化である。2005年に『土の中の子供』で第133回芥川賞を受賞した中村は、純文学作家に分類される。だが、自身も同賞を受賞した又吉直樹をはじめとする読書芸人が、中村の作品を好きな本としてあげることは多いし、これまでにも『最後の命』、『火 Hee』(原作は『銃』所収の短編「火」)、『去年の冬、きみと別れ』、『悪と仮面のルール』といった映画化があった。純文学作家のなかでは知名度の高い1人である。ミステリー的な設定で登場人物の心理を掘り下げる作品が多く、エンタメ小説とのハイブリッドの作風で読者層は広い。


 緊縛師の死体発見が発端となる最新作『その先の道に消える』もそうだが、事件、犯罪、暴力を扱った小説の多い中村文則の原点が、『銃』である。中村は2010年に『掏摸』が第4回大江健三郎賞を受賞したことにより、同作が英訳され、海外でも読まれる作家になっていった。『掏摸』は書名の通りスリを主人公にしている。手先の感触をポイントにして物語が作られた点では、『銃』の発想を受け継いだところがあった。


 また、『銃』の原作では、アメリカがアフガニスタンに爆弾を落としたという新聞記事を目にするが、トオルは関心を持たない。今回の映画でも、イスラム国のニュースがテレビに映るが、トオルのそばでただ流れていくだけだ。海外の大きな暴力と拾った銃という個人的な暴力が、『銃』では対比されていた。後にキャリアを積んだ中村は、カルト教団とテロを扱った『教団X』、ディストピアの未来における戦争を描いた『R帝国』といった大作で、個人の鬱屈や怒りが大きな暴力にどのように組みこまれるかを書いた。ふり返ると、『銃』からスタートしたからそこまでたどり着いたという印象なのである。


 青年が、なんらかの力や考えを得ることで高揚し、悩み、時には犯罪に走る。この種の物語は昔から作られてきた。例えば、名前を書けば相手が死ぬノートを手に入れた青年が世界を変えようとするヒットマンガ『デスノート』がそうだった。また、中村が大きな影響を受けたロシアの文豪ドストエフスキーの『罪と罰』では、非凡な人間は道徳を外れる権利があるとする選民思想に青年がとり憑かれ、奪った金で善行を施そうと強欲な老婆を斧で殺害する。だが、事件を追及する予審判事に精神的に追いつめられていく。『銃』では、突然訪れた刑事(リリー・フランキー)にトオルが動揺を隠し反論する場面などに、『罪と罰』からの影響が感じられる。


 『銃』の場合、トオルは事前に誰かを殺したいとか、銀行強盗をするために武器が欲しいとか、犯行の計画や動機を持っていたわけではない。たまたま拾った拳銃が手によくなじんだため、それを自分が使う可能性を考え始めてしまうのである。映画化において特徴的なのは、モノクロ映像で進行することだ。銃にばかり意識が向いて、他のことがだんだんおろそかになっていく。トオルの意識の変調が、色を欠くことで表されている。


 また、主人公は悪友につきあって合コンに参加するなど、男子大学生らしい浮ついた行動をする。だが、彼の内面をあらわすナレーションは、原作の文章を利用した部分が多い。デビュー作であり生硬さの残った言葉づかいなので、トオルが現実場面で交わす若者らしい会話とは、トーンが違う。そのことが、彼の内面と外面のズレを示しているとも解釈できる。色や音声で、映像作品ならではの表現がされているのだ。


 トオルは、合コンで知りあった通称「トースト女」(日南響子)とセックス・フレンドになった。やりたい時にやる状態である。一方、以前に大学のコンパで同席したものの彼のほうは忘れていたヨシカワユウコ(広瀬アリス)から声をかけられ、話をするようになった。ユウコに関してはすぐにセックスせず、ゲームとして時間をかけて親しくなる計画を考える。銃を発射するか、先送りするかの逡巡が、2人の女性に対する異なる態度に反映されているようにみえる。


 トオルは、自室の隣の部屋から母親(新垣理沙)が子供を虐待する音が聞こえるのを不快に思う。物語が進むにつれ、彼自身の過去にも親との幸せとはいえない関係があったことが浮かび上がってくる。原作を精神分析的に読み解いたかのごとく、映画は小説以上に親子関係のウエイトが大きくなっている印象だ。トオルを演じる村上虹郎の実父・村上淳が、偶然居あわせた他人の役ではあるが、重要な場面に登場することもその印象を強める。


 ただ、原作も映画も、親子関係がそうだったから主人公はそうしたという因果関係には収まっていない。本人にも理由のわからない衝動が、拳銃の具体的な手触りや重さで増幅され、機会があれば暴発してしまう。読む人、観る人は、自分も拳銃を持ったらどうなるかという不安を物語から感じるだろう。


 ロシアのもう1人の文豪チェーホフは、舞台上に弾をこめたライフルを置いたら、それは必ず発砲されなければならないと述べた。不必要なものは持ちこむなとする創作作法として知られる言葉だ。『銃』では当然、いつ撃つのか、なにを、誰を撃つのかが最大の興味となる。緊張の持続と高まりに引きつけられるし、映画のラストは凄まじい。原作にあった衝撃を見事に映像化している。怖い物語だ。(円堂都司昭)