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デル・トロ版『ピノキオ』は現代社会を照射する物語に? 制作陣の絶妙な組合わせから考える

2018年11月19日 15:52  リアルサウンド

リアルサウンド

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 過日、かねてより噂されていたギレルモ・デル・トロ監督による『ピノキオ』の制作が正式に発表された(参考:https://variety.com/2018/film/news/guillermo-del-toro-pinocchio-netflix-1202987621/)。一時期はお蔵入りかというニュースも飛び交ったが、無事制作が発表されてファンは安堵していることだろう。 


 本作は劇場用作品ではなくNetflixでの配信作品で、ストップモーションアニメーションで作られるという。多くのアニメーション作品に影響を受けていることを公言しているデル・トロだが、制作として関わることはあっても監督としてアニメーションを手がけるのはこれが初めてだ。一体どんな作品になるのか、ファンとして期待せずにはいられない。


 『ピノキオ』という題材を、ストップモーションで作ることは作品が持つテーマを考えてみても非常に意義深いことだ。そして、今のデル・トロが手がけるということにも大きな意義があると思える。デル・トロの『ピノキオ』は果たしてどんな作品になるのか考えてみたい。


 『ピノキオ』は、1883年にイタリアで出版されたカルロ・コッローディの児童文学『ピノッキオの冒険』を原作としている。今日この作品が有名なのは、1940年に公開されたディズニーのアニメーション映画によるところが大きいが、そのストーリーは、操り人形だったピノキオが女神から生命を授かり、心優しいゼペットおじいさんとコオロギのジミニー・クリケットに見守られながら、様々な失敗を経て人間となる物語として記憶している人が多いと思われる。


 だがディズニー版のストーリーはかなり脚色されている。ピノキオは元々意思を持った丸太で、気味悪がったサクランボ親方がちょうど訪ねてきたジュゼッペじいさんにそれを譲る、そしてジュゼッペじいさんが一本の丸太から作った操り人形がピノキオという設定だ。その他多くの相違点があり、例えばディズニー版ではピノキオは素直な良い子として描かれているが、原作ではイタズラ好きで、不真面目な性格で学校にも行きたがらない。映画ではピノキオを導く良心であるコオロギのジミニー・クリケットも序盤でピノキオに殺されてしまうなど(後に復活するが)、映画版と原作では相当に雰囲気が異なる。


 原作が誕生した当時のイタリア社会は、1861年に統一イタリアが生まれて間もなく、国内政治も不安定な状況であった。作者のコッローディはイタリア統一戦争に従軍経験のある人物で、文化批評や政治批評などの活動を経て、イタリア国民が1つの共同体として自立できるようになるにはどうすべきかを腐心し、子ども向けの児童文学の執筆に目を向けたと言われる。晩年には教科書の仕事もしており、教育に高い関心を持った人物であった。


 『ピノッキオの冒険』はイタズラ好きな操り人形のピノッキオが、世間の様々な誘惑に流され、騙されて金を奪われたり、売り飛ばされたりなど酷い目に遭いながら社会を学んでいく物語。操り人形である彼は、生命を持っていても自らの意思が弱く、まさに操り人形のように簡単に相手に騙されてしまう。そんな人形が徐々に社会の理不尽さを学び自立していき、本当の人間になるまでが描かれる。嘘をつくと鼻が伸びるというアイデアに、誠実に生きることの大切さが込められており、今日でも通用する普遍的な教育理念が多く詰まった作品だ。


 原作では、ピノッキオがナイフで殺し屋たちに襲われて吊るし首になったり(木なので死にはしないのだが)、頭からぬかるみにはまったピノッキオを見て大笑いした蛇が笑いすぎて破裂して死んだりと残酷な描写もふんだんに盛り込まれている。ディズニー版では残酷描写はかなり抑えられていて、ピノキオ自身も学校に行くのを楽しみにする素直な良い子に変更されている。


 しかし、人の言うことに流されず、自立心を持ち誠実に生きることの大切さを描いている点は原作と共通している。生命なきものに生命を宿すというピノキオの物語を、万物に生命を吹き込む技術であるアニメーションで描いたことでより強い説得力を生んでおり、名作として今日でも語り継がれている。物語として優れていることもさることながら、マルチプレーンカメラを用いた立体感あるセル画撮影や、『モアナと伝説の海』にも通じる海の波をはじめとするダイナミックで美しい水の描写など、技術的にも目を見張る作品だ。


 デル・トロが現代に『ピノキオ』の物語を蘇らせるにあたり、選んだ手法はストップモーションアニメーションだった。このことは本作のテーマを考えると非常に意義深い。ストップモーションは人形を一コマずつ動かして、生命を吹き込む技法だが、文字通りの操り人形であるピノキオが生命を授かる物語と技法のレベルでシンクロする。テーマやメッセージが物語の上だけでなく、それを語る手法にまで隅々に染み渡れば、作品の強度は当然強くなる。この選択は吉となるだろうと筆者は確信している。


 ここで重要になってくるのが制作スタジオや参加スタッフだが、全てのスタッフが公になっているわけではないが、すでにわかっている範囲だけでも非常に面白い座組となっている。


 まずデル・トロと共同監督を務めるマーク・グスタフソン。彼はウェス・アンダーソンが初めて手がけたストップモーション映画『ファンタスティック Mr.FOX』でアニメーション監督を務めた人物だ。実写監督のアニメーションデビュー作でその辣腕を奮っており、デル・トロもその経験を買ったのだろう。


 そして、アニメーション制作を担当するスタジオにジム・ヘンソン・カンパニーとShadowMachineの2社が発表されている。ジム・ヘンソンと言えば『セサミストリート』の生みの親であり、操り人形(マリオネット)とパペットを組み合わせた独自の操演人形「マペット」を生み出した人物だ。操り人形の物語を描くにあたり、マペットの大家の作ったスタジオを起用するのは面白い試みだ。マペットの傑作『セサミストリート』は幼児向けの教育番組であるが、するどい社会への眼差しを含んだ作品でもあり、多様な生物が共存して生きる姿は、そのまま他人種国家アメリカでの共生の重要さを子どもたちに説くものであった。しかし、ジム・ヘンソン自身はマペットが所詮子ども向けの表現にすぎないと思われることが我慢ならなかったようだ。彼のその想いは1982年に公開された傑作ダークファンタジー映画『ダーククリスタル』へと結実することになる。ちなみに『ダーククリスタル』の前日譚がNetflixで制作されることも発表されている。


 そしてジム・ヘンソン・カンパニーとともにアニメーション制作を担うのが、ShadowMachineだ。このスタジオは、カートゥーン・ネットワークなどで子ども向けから大人向けの作品まで幅広く手がけており、近年ではNetflixの人気のアニメーションシリーズ『ボージャック・ホースマン』を制作していることで知られる。馬に擬人化されたかつてのセレブ俳優の落ちぶれた姿を鋭い時事ネタやシモネタギャグを織り交ぜ、過去の栄光にしがみつく男の悲哀と切実さが笑いと共感を呼んでおり、シニカルでブラックな大人向けのアニメーションとして現在シーズン5まで制作されている。


 この組み合わせだけでも一筋縄ではいかない作品になりそうな予感がするだろう。ギレルモ・デル・トロの『ピノキオ』は1930年代のムッソリーニのファシズムが台頭する時代を舞台にするそうで、「自分は果たして操り人間か、それとも人間か、というテーマを追求するためには恰好の時代だ」(参照:https://eiga.com/news/20171121/7/)と制作の動機を語っている。デル・トロは、この古典を現代社会を照射する物語として再生させようとしている。そんな彼のビジョンを具体化する上でこの2つのスタジオの組み合わせは面白い相乗効果を生むのではないだろうか。


 デル・トロは少年の心を持ったまま大人になった人物として語られることが多い。そんな彼が『シェイプ・オブ・ウォーター』で社会への鋭い眼差しと得意のダークファンタジーを融合させてアカデミー賞を受賞したことは記憶に新しい。今の彼の立ち位置は『シンドラーのリスト』を作った頃のスピルバーグにも重なるかもしれない。スピルバーグも少年の心を持った男として語られ、世界中の人々を楽しませる娯楽映画を数多く作り、『プライベート・ライアン』や昨年の『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』など歴史や社会を見つめる作風へと幅を広げてきた。


 デル・トロの作る『ピノキオ』はカルロ・コッローディの原作がそうであったように、鋭く現代社会をえぐり出すものとなるであろうし、作品が持つ普遍的な感情も大切にされるような作品となることだろう。『ピノキオ』は、少年の心と社会を鋭く見つめる眼差しの両方を獲得した今のデル・トロにふさわしい題材といえるだろう。 (杉本穂高)