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映画製作における美術監督の役割とは? 鈴木清順、熊井啓らを支えた巨匠・木村威夫の真髄

2018年11月18日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 現在、国立映画アーカイブ開館記念として開催中の『生誕100年 映画美術監督 木村威夫』は、普段はあまり脚光を浴びることのない映画美術と映画美術監督の巨匠にスポットを当てた展覧会。この特別企画をひと言で表すと、映画制作においての美術の存在の大きさを知る機会になるといっていいかもしれない。


 御存知の方も多いと思うが、木村威夫は映画美術の巨匠。舞台美術でキャリアをスタートさせたのちに、映画界入り。大手映画会社の大作から若手のインディペンデント映画まで、さまざまな作品の映画美術監督を務めた。参加した作品は、劇場公開された長編だけでも240本を超え、とりわけ鈴木清順と熊井啓という、まったくタイプの異なる作風の監督とコンビを組むことを少しもいとわなかった実にバイタリティ豊かな感性の持ち主。「映画美術とは、人の情念を表現する仕事である」と語り、晩年に差し掛かった86歳の2004年には映画監督デビューまで果たしている。逝去する2010年まで精力的に活動するとともに、大学や映画教育機関で後進の育成にも携わった映画人だ。


 その美術監督人生は60年以上。しかも最後まで第一線で活躍していた上に、手掛けた作品もひとつの器には収まらない。今回の展覧会場の入り口に掲げられたボードに羅列された映画タイトルにざっと目を通せば一目瞭然なのだが、作品の大小もジャンルさまざまで、縦横無尽に多種多様な作品を往来している。これを限られたスペースでまとめるのは困難なことと容易に想像できる。


 その中で、今回の展覧会は、非常にコンパクトな中にも木村の人生とキャリアの要所を的確かつディープに深掘りしながら回顧。日本映画界を代表する美術監督の功績をくまなく振り返るとともに、映画美術のすばらしさも堪能できる内容になっている。


◯時間軸とポイントが明確に示された展覧会


 今回の企画展を担当した国立映画アーカイブの濱田尚孝研究員に話を聞くと、この長きキャリアをどうまとめるかはやはり悩みどころだったという。


「木村さんに関する展覧会は、2002年に川崎市市民ミュージアムで開催された『夢幻巡礼 映画美術監督木村威夫』展がありました。実は、私はこの展覧会でもアシスタント・スタッフとしてお手伝いをしていました。その経緯もあって、今回、メインで担当することになったのですが、手始めにワイズ出版から出ている木村さんの著書『映画美術―擬景・借景・嘘百景』を読んで基本情報を頭に叩き込んだものの、いざ膨大な資料を前にすると途方に暮れたといいますか(笑)。今回、京都造形芸術大学芸術学部映画学科が保管する資料をお借りできることが決まっていました。同学科は、木村さんが亡くなるまで客員教授を務めておられて、その関係から木村さんが亡くなった後、木村さんの下で助手を務められたことのある嵩村裕司准教授のご尽力で、調布の自宅の可動式書架に収められていた膨大な資料が同学科に移管されました。あわせてその書架も一緒に運ばれ、木村さんが並べていた通りに資料が配架され、自宅にあった形そのままに保管されています。ここにある、木村さんが長年蓄積されてきた文献やロケハン写真、セットの写真や映画作品のスチル、シナリオ、セットデザインや図面などを、光栄なことに自由に見ることができたんです。実は、川崎市市民ミュージアムの時の準備で木村さんのご自宅にお伺いした際、私も直接書庫は見ているんです。ただ、当時は木村さんがまだご存命で、自由に見ることはできませんでした。あくまで木村さんが自ら書庫から出されてきた資料しか見られなかったんです。でも、今回は自分で好きなところを好きなだけ調べられました。ただ、これが調べれば調べるほど、的が絞れないといいますか。ほんとうに大量の資料に溺れるようで、どうしようかと思いました。そこから試行錯誤しまして、最終的には、木村さんの個性がよく表れた鈴木清順監督と熊井啓監督との仕事は外せない。それから川崎市市民ミュージアムの展覧会では見せることができなかった資料をできるだけ展示する。一方で川崎のときに重要だった資料で今回も展示する。そういったことを要所にしながら、木村さんのキャリア全体を見渡せて、重要なところをポイント、ポイントで見せられればと思いました」


 こうして構成された展示は全5章仕立て。第1章「生い立ち~演劇活動から映画の世界へ(1918~41)」から始まり、第2章「大映時代(42~54)」、第3章「日活時代(54~71)」、第4章「フリーの時代(71~2010)」、第5章「監督作品と文筆活動」と続く。


 時間軸とポイントが明確に示されているので、木村の出生から亡くなるまでの歩みを年代順に追うことができて、その足跡を知るには十分な内容。木村威夫という戦前から日本映画を下支えしてきた映画人の業績を誰もが感じることができるに違いない。


◯互いが特別な存在だった鈴木清順と木村威夫


 その中で、やはり興味深いのは、鈴木清順監督とのコラボレーションのパートにほかならない。木村威夫と鈴木清順がタッグを組んだのは1963年の『悪太郎』に始まり、2005年の『オペレッタ狸御殿』までの計15作品。『ツィゴイネルワイゼン』『ピストルオペラ』など、あの清順映画の独特の様式美と映像美に木村は欠かせない存在だった。おそらく木村威夫にとっても、鈴木清順にとっても、互いが特別な存在であったことは確かだ。


 一体、あの清順スタイルはどうやって確立していったのか? 今回の展示では、セットの図面などから、その一端を見て取ることができる。ひと言で表してしまえば、木村のユニークなアイデアと逸脱した美術なしに、あの世界は生み出されなかったのではないか? 展示品を注意深く見ていくと、そう思えてならない。


 ただ、あくまで個人的な推察でしかないが、実際に2人が一緒にした作品の資料よりも、2人が好相性であったことを痛感したのは、木村の残しているデッサンや絵だ。これが驚かされる。その独特の色使いやタッチで描かれた絵は、ロケ場所をちょっとスケッチしたものでも、現実世界にも幻想世界にも見える。そこには、夢の中のような、現実のような不思議な空間、この世にもあの世にも思える風景が浮かび上がる。この不思議な空間と風景こそ清順スタイルに相通ずるところがあるのではないかと思わずにはいられない。また、リアルと幻想、どちらにも触れる感性があったからこそ、木村のもうひとりの盟友といっていい社会派映画の巨匠、熊井啓監督とも組むことができたのかもしれない。


 ちなみに濱田研究員は注目の発見資料として次のように話してくれた。


「まず京都造形芸大からお借りした資料の中で、大映時代最後の作品である『春琴物語』の資料があります。大映時代の資料は少ないので残っているだけでも貴重です。この作品は舞台が大阪なのですが、東京のスタジオに上方の世界を作るため、大阪や京都で綿密な調査を行ったそうです。そのセット図面のほか、セットの細部を描いたスケッチ帖などが見つかりました。さらに他施設に保管されていた資料もあわせて、『春琴物語』の美術を多角的に見られる展示を構成できました。それから、木村さんのご長女である山脇桃子さんから、東京・調布の調布市武者小路実篤記念館に、映画『或る女』の木村さんの資料がいくつかあるとのご連絡をいただきました。調べてみると、『或る女』で時代考証を担当した画家の木村壮八が描いたデッサンが6点ありまして。最初はただのデッサンかなと思っていたのですが、きちんと確認したら映画のタイトルバックに実際に使用されたものと判明して、今回の展覧会のためにお借りしました。それからもうひとつ大きな発見がありました。実は京都造形芸大の資料を探しても、日活時代の鈴木清順作品の図面はほとんど出てこなかったんです。それは川崎のときも同じでした。それでたまたまなんですけど、現在、日活さんから国立映画アーカイブに寄贈される予定の資料がありまして、それは撮影所に保管されていたさまざまな美術資料なんですけど、それを整理してみたら木村さんの『刺青一代』の図面が出てきた。この偶然の発見には驚きましたね。“自分たちの足下にあったか”と(笑)」


◯映画における美術監督の存在


 そして、もうひとつ展示全体を通して、痛烈に感じられるのが、映画美術監督がこちらが思っているよりもはるかに映画において重要な存在であることにほかならない。緻密な計算と大胆な発想力が必要な仕事で、それは作品に大きな影響を与える。


 図面をみれば、その細かな計算のもとセットが作られていることがわかるし、デッサンを見ればその映画のヴィジュアル面をある程度方向づける大きな役割を担っていることがわかる。


 美術監督の的確な空間の把握と、緻密な美術デザインが作品の良し悪しを左右するといっても過言ではないのではなかろうか? そう考えざるをえないほど、美術監督の果たす役割は大きい。


 おそらく普段、映画を観るとき、ほとんどの人は美術を重点的にみることはないはず。撮影監督が監督の目になるとは、よく聞くが、木村威夫の仕事を見ると、美術監督もまた監督の目となっているのではないかと思える。それほど映画のルックを決めている。時には監督のアイデアの源になっているケースも少なくない。そのことは、展覧会場内の各所で流れている抜粋映像でも感じることができるはずだ。


 濱田研究員は木村の映画美術についてこう語る。


「デッサンや図面は、撮影スタッフはもとより、予算を管理する事務方にまで、人に伝えるものなので、やはりきっちりしていますよね。脚本に書き込まれている字をみても、細やかで相手がわかるものになっている。あと、かつての助手の方たちによれば、直観がすごいと。ロケハンに行っても、ここはこう撮ったらいい形になるとか、ヴィジョンが見える人だったとおっしゃっていました。そのあたりの感性は突出したものがあったようです。それから木村さんが書かれていることなんですけど、セットは寸法が大切と。例えば画面で見ると6畳に見えるという部屋でも、実際はちょっと長かったり、逆に狭かったりする。そういう空間つくりにおける寸法値が美術監督の技術の要だったみたいです。その技術こそ美術監督の虎の巻というか。秘伝のレシピで。だから、実は川崎の時は、まだ木村さんはご存命だったので、あまり図面は出したがらなかったんですよ。ですから、今回、これだけ図面が展示されているのは大盤振る舞いといいますか。これだけ図面が見られるのは実は画期的な試みなんです。たぶん、その道の方が見るとすごく参考になると思います。あと、これは余談になりますけど、お弟子さんにお聞きすると、けっこういい加減なところもあって、たまに寸法の計算違いで、“あれっ”というときもあったそうです(苦笑)。


 私自身、今回の展覧会に取り組んで感じたのは、やはり映画美術の重要度といいますか。映画の現場は、美術監督が手を加えた空間ができてから、監督やカメラマン、俳優たちが入ってくる。そして、カメラの前に立つのは役者と、美術監督が作った空間なんですよね。そういう意味で言うと、美術監督の手がけた美術はもうひとりの出演者で。ある程度、映画を方向付けてしまう力がある。美術監督自身は出てこないのだけれど、その作ったものが作品の中に永久に残る。その重要さをまず感じました。あともうひとつ、たとえばロケに行ってその風景を撮る場合でも、美術監督がそこになにか隠したり、足したりしている。そこには必ず美術監督のコントロールが働いていて、そうでないとそうとでは大きな違いが出るんですね。映画のすべての画面、最初から最後まで映画美術は関わっている。そのことにも改めて気づかされました。そこでこれだけ長きに渡って活躍されてきた木村さんはやはりすごかったというか。実際、監督たちの知恵袋的な役割も果たされていた気がします。というのも、今回ほんのちょっとしか触れられなかったのですが、未映画化に終わっている作品が本当に多くあるんです。熊井啓監督とか、吉田喜重監督とか、これらが実現してたらどんな映画になったんだろうとわくわくするような企画が実現の一歩手前までいっていた。それぐらい頼りにされている監督さんがいらっしゃった。晩年、何度も一緒に仕事をされた黒木和雄監督も、お仕事以外でも木村さんを慕われていて、対話を重ねていたそうです」


 また、展覧会に合わせて、同館2階にある長瀬記念ホールOZUでは、木村の特集上映が25日まで開催中。美術監督デビュー作から、90歳で発表し、ギネス記録となった初の長編監督作品『夢のまにまに』まで全20作品が上映となる。


 濱田氏はこちらのラインナップも悩まれたことを明かす。


「木村さんが最初に美術監督を務められた『海の呼ぶ聲』は絶対に上映したかった作品です。ただ、この作品は昭和19年に公開されるはずが検閲でダメになり、終戦後にようやく公開された。その経緯があったのでフィルムが見つかるか不安だったのですが現存していて今回上映できる運びとなりました。美術監督の2作目となる『絢爛たる復讐』も上映するのですが、この1作目から2作目への飛び方というか飛躍がものすごい。2作目にして「木村さんの美術」ともいうべき、木村美術のオリジナリティが現れている。それは観ていただければ感じていただけるかと。ちなみにこの2作品と、大映時代中期の『蜘蛛の街』は現存する16mmマスターポジから、今回のために上映用35mmプリントを作製しての上映です。あとはキャリアで重要となる、鈴木清順監督と熊井啓監督の作品は各3本ずつ上映します。ぜひ、木村さんの映画美術を展示と合わせて楽しんでいただければ幸いです」


 映画美術の巨匠として数々の名作に携わった木村威夫。その映画美術の奥深い世界にぜひ触れてほしい。きっと、一度見た映画でもまったく違った風景が見えてくることだろう。


(取材・文=水上賢治)