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渡邉大輔が論じる、ウェアラブルカメラGoPro最新機種「HERO7」が映画表現にもたらすもの

2018年11月15日 13:12  リアルサウンド

リアルサウンド

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 9月末、アウトドア用ウェアラブルカメラ「GoPro」の最新機種「HERO7」が発売された。


 今回、新たにつけ加わった機能のなかでも、とくに注目されているのが、いわゆる「ジンバル」(手ブレ補正器具)なしでも映像がまったくブレない、「スーパースムース」と呼ばれるものであるらしい(「Black」のみ)。


 従来のGoProとの比較映像を確認してみると、たしかに新機種では、画面のブレが圧倒的に少なく、激しい動きのPOVショット(一人称視点)でも、はるかにクリアな映像の撮影が可能になっている。こうした完璧なまでに手ブレ補正が効いたウェアラブルカメラの登場によって、今後の映画制作にはどのような変化が起こるだろうか?


 とはいえ、筆者はカメラマンでもエンジニアでもないので、純粋に技術的な側面から、その画期を語ることは難しい(この点は、編集部にも断っている)。このコラムでは、おもに筆者の専門である映画批評や映像メディア論の視点から、今回のHERO7の普及によって、映画の演出や表現に起こりうる変化の可能性について、素描的に考えてみたい。


 映画ファンにはすでに知られていることだろうが、もとより、GoProを使った映像撮影は、ドローンと並んで映画や映像業界ではいまやすっかり一般化しているといってよいだろう。この、本来はアウトドア撮影を目的とした防水機能つき超軽量小型カメラが発売されたのは、2000年代なかばのことだが、その後しばらくして、映画の撮影にも用いられることになる。


 筆者の見るところ、GoPro撮影の映像がひとびとにインパクトを与えたもっとも初期の例は、2012年ころから現れる。この年、GoProを駆使して撮影された劇映画とドキュメンタリーが相次いで公開された――すなわち、デヴィッド・エアー監督の『エンド・オブ・ウォッチ』(End of Watch)と、ルーシァン・キャステーヌ=テイラー&ヴェレナ・パラヴェル監督の『リヴァイアサン』(Leviathan)である。


 このうち、後者の『リヴァイアサン』の映像のもつインパクトについては、筆者もこれまでにもたびたび論じてきた。この映像人類学的な海洋ドキュメンタリー映画においては、舞台となる漁船に合計11台ものGoProがいたるところにセットアップされ、これまでの映画では見たことのないような、迫力ある「多視点的」なカメラアイを可能にした。手軽に持ち運べ、身体や物体のあらゆるところに装着でき、これまでは撮影が困難だったシチュエーションにも対応可能な「GoPro映画」は、当然のことながら、映画で映像化できる条件や範囲を飛躍的に押し拡げることに成功した。


 三脚に固定され、あるいは人間の眼の高さに据えられた従来の「人間=カメラマン中心的」なカメラアイやカメラワークは、いまや人間の手や重力から解き放たれ、ユビキタスな機動性を獲得しつつある。いみじくもGoProが発売された前後、何人かの映像研究者たちのあいだでは、「ポストカメラ」や「非擬人的カメラ」なる言葉が生まれていた。デジタル技術の進展により、人間の存在や操作をかいさずに機能するようになった新たなカメラワークや映像表現を指す言葉だが、まさに今日の「GoPro映画」こそ、このポストカメラ映画の最たるもののひとつであり、HERO7がそれをますますラディカライズしていくことは間違いない。『リヴァイアサン』の映像が典型的なように、これまでのGoPro映像の激しい画面の揺れや振動は、映像に迫真性を付与する一方で、観客に映画としての見にくさも感じさせてしまっていた。HERO7の手ブレ補正機能は、GoPro映像におけるこの障壁を取り除くだろう。


 あるいは、以上のようなGoPro(的)映像の「規格化」は、――これ自体、デジタルメディア全般にいえる傾向ではあるが――(実写)映画のフォーマットに、別のジャンルやメディア、表現の文脈をハイブリッドに混淆させることも推し進めるだろう。


 たとえば、この点で興味深い動きは、近年、大きな注目を集めている、いわゆる「一人称シューティングゲーム」(First Person shooter/FPS)の映像を模したような、スペクタクルな一人称視点の映像を中心に展開される新世代アクション映画の台頭である。


 FPSとはその名のとおり、主人公=視点プレイヤー視点(FPV)でゲーム内空間を移動し、敵と戦うアクションゲームを指す。したがって、画面にはつねに主観キャラクターの身体の一部しか映らず、キャラクターの全身像が映りこむ「三人称シューティングゲーム」(TPS)とは区別される。いずれにせよ、このFPS特有の映像演出を明確に意識した映画が、21世紀に入ってにわかに目立つようになってきたのである。イリヤ・ナイシュラー監督による全編が一人称視点によって作られた奇抜なSFアクション『ハードコア』(Хардкор, Hardcore Henry, 2015)や、チョン・ビョンギル監督のサスペンス・アクション『悪女/AKUJO』(악녀, 2017)といった作品群は、その代表的な例である。


 いちおう断っておけば、これらのいわば「FPSゲーム的映画」の一人称視点の長回し映像は、たいていはCG処理がされており、『リヴァイアサン』のように、純粋にGoProで撮影された映像ではない。しかしながら、これらのFPSゲーム的映画のカメラアイもまた、従来のカメラワークではけっしてありえなかったような、ミニマムな機動性、身体=物体の動きに密着した視点を獲得しており、画面のルックにおいてGoPro映画とも多くの共通点をもつ(また、ここにはさらに、パソコンのデスクトップ画面上で全編が展開されていく昨今の「デスクトップ映画」の文脈も絡んでくるはずだが、それはまた別の話である)。


 今回のHERO7の高い映像補正機能やタイムラプス機能、ライブストリーミング機能などは、これまでのウェアラブルカメラ映像をより「シネマライク」なものに近づけていくだろうが、こうしたGoPro(的)映像の「シネマライク化」は、いま起こりつつある「映画とゲームの融合」という事態をも、ますます促進させていくきっかけのひとつになると思われる。さらにいえば、かつてレフ・マノヴィッチが記したように(『ニューメディアの言語』)、現代のデジタル映像の本質が(「実写」から離れて)アニメーションに近づいている――押井守のいう「すべての映画はアニメになる」――のだとすれば、GoPro(的)映画はゲームに加え、アニメーションとも一体化していくことになる。実際、「アニメーション美学」を標榜しているポール・ワードが、かつてジェイ・デイヴィッド・ボルターを援用して、ビデオゲームを「再メディア化したアニメーション」と定義したように、いま、インディペンデントアニメーションとインディペンデントゲームのコラボレーションが急速に進んでいることも知られている。


 いささか駆け足でたどってきたが、GoProによる映画制作が、今後、映画の規範的な位置をますます撹乱し、さまざまなジャンルや表現(ゲーム、アニメーション、ライブ配信動画……)の文脈を呼び込むことはたしかだと思われる。


 だが他方、もちろんそのことで失われるものも少なくないだろう。


 おそらくHERO7以降、2020年代のウェアラブルカメラは、かつてのような映像の「手ブレ」や「画面ブレ」という要素そのものを過去のものとしていく。もしかしたら、映画やテレビ、そしてネット動画の観客・視聴者たちは、「手ブレ」という表現がかつて画面にはあったこともやがて忘れていくのかもしれない。手ブレや画面ブレは、さきほどの『リヴァイアサン』のエモーショナルな多視点的カメラワークも含めて、とりわけデジタルカメラが映画制作に本格的に使用されるようになった90年代以降、国内外のすぐれた映画作家たちにより、映像の新たなリアリティを体現するものとして自覚的に捉え直され、方法的に洗練されてきたという経緯がある。


 このコラムでその詳細を述べることはできないが、たとえば90年代のラース・フォン・トリアーら「ドグマ95」の実践や、カメラマンの篠田昇とともにいわゆる「岩井美学」を作り上げた岩井俊二などを思い起こしていただければよいだろう。あるいは、およそ90年代末から2000年代になると、山下敦弘や松江哲明らが初期作品において、当時流行していた「フェイク・ドキュメンタリー」のスタイルをシニカルに取り入れた作品を撮るようになる。そして、なかでも面白かったのが、そのフェイク・ドキュメンタリーの形式を独自に追求していった白石晃士の作品群である。彼は自作のなかで、手持ちのデジカメの手ブレを活かして、そのままシームレスにつぎの異なるシーンに編集をつなげる「ブレつなぎ」といった、手ブレ(による画面ブレ)を逆手に取ったユニークな表現を生み出した。あるいは、手ブレを活かした風景映画を独自の映像理論(揺動メディア論)とともに作り上げた若手映像作家・佐々木友輔の活動もそこに含まれる。


 こうした現代映画の数々の表現が示すのは、手持ちのデジタルカメラに特有の手ブレという技術上の制約を、創造的かつ批評的な表現に昇華した事例である。つまり、これらの表現は、いま観客や視聴者が観ている映像が、ふつうわたしたちの瞳が媒介なしに眼差している現実の世界そのままではないこと、なんらかの技術的・メディア的なフィルターをかいして表れているものであること――ようするに「表象」であることのシグナルを発していた。


 ところが、こうした画面のブレをいっさい意識させず、何もかもをクリアに捉えるHERO7的な映像は、こうしたわたしたちと世界とのあいだに横たわる表象の齟齬を忘却させる。ある意味で、それはわたしたちの眼がそのままカメラになり、インターフェイスとつながっていくような実感をもたらす。もしそうしたリアリティが広範に浸透したとき、映像表現はその本質から決定的に変化するだろう。


■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。