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『ここは退屈迎えに来て』橋本愛と門脇麦が演じる、“人々の関わり”の物語

2018年11月05日 10:12  リアルサウンド

リアルサウンド

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 「何者かになりたい」という漠然とした希望や、「ずっと高校生のままでいたい」という少し甘えた願望、そんな想いを胸に秘めながら、恐らく多くの者が年齢を重ねていくのだろう。いま隣にいる“あなた”、あるいは、さっきすれ違った“誰”か。そしていまこれを書いている“私”もまたその一人である。


 山内マリコによる連作小説を原作とした映画『ここは退屈迎えに来て』は、そんな私やあなたや誰かを見つめた群像劇だ。2004年から2013年までの時間軸の中で、すれ違う人々や営みの連関を、ときに朗らかに、ときにピリリと痛く、ゆったりとしたロードムービー調で描いている。


 ロードムービーとはいえ、なにかハプニングや、大きな目的があるわけではない。イケてる男子高校生・椎名(成田凌)をめぐる同級生たちの約10年間の物語であり、本筋は、大人になった主人公・“私”(橋本愛)たちが、高校時代のクラスメイトである椎名を訪ねていくというものだ。


【写真】『ここは退屈迎えに来て』劇中の橋本愛


 将来この田舎町を出ていきたい者、出ていかなかったことを後悔している者。そして、戻ってきた者、出ていけなった者、出ていきたいとは口にしながらも実行できないでいる者たち。2004年-2008年-2010年-2013年と映し出されるこれらの時代では、おもに年若い男女の、他愛なく、地元のコミュニティ内でしか通じないような会話が盛んに交わされている。けれども、彼らが学生時代を回顧しては懐かしみ、恥じ、後悔し、やがて“たられば”の物思いに耽る姿には見覚えがある。過ぎた日々への“たられば”な思いというのは、口にせずとも誰もが心に生じさせてしまうものではないだろうか。ここには観客である私たちの過ごしてきた時間と同じものが流れているのだ。かつての自分の姿、あるいは今の自分の姿を、舞台である富山の田舎道をぐるぐると周回する彼/彼女の中に見出すことができるかもしれない。理想と現実の隔たりはなかなか縮まらず、誰もがこのはざまにある道を進んでいくのだ。


 ロードムービーといえばやはり気になるのは音楽である。主題歌「Water Lily Flower」も手がけたフジファブリックが劇伴を担当し、さらにはDATSの「Heart」や、LUCKY TAPESの「Peace and Music」といった楽曲たちが、物語に軽快さを与えるのと同時に観る者の郷愁を誘う。物語の終盤では、登場人物たちが赤く染まった空を感じながら、フジファブリックの「茜色の夕日」を一様に口ずさむという演出がある。それぞれの場所で、それぞれの歌い方でだ。同じ歌を口にし、同じ夕日を感じる、ここに彼らの連関が見られる。そして場所は違えど、私たちの頭上にもまた同じようなものが広がっているではないか。ただ、どれだけ離れていても、近くにいても、それをどのように感じるかは人それぞれだ。


 人々の連関は、ほかの演出にも見られる。やはり監督が廣木隆一とあって、長回しでの撮影が魅惑的だ。人生という旅の中での人々のすれ違い、そして各々がどこかで関わり合っているさまを、心地のよい長回し撮影によって映し出している。たとえば、2004年パートで瀧内公美演じる家庭教師の車が画面から抜けていくと、その画面奥から、2008年パートの門脇麦演じる“あたし”が出てくるというものがある。別の時間を過ごしているはずの者たちが、ワンカット(=一片の映像)内でまるで時空を越えるようにすれ違い、場面はシームレスに転換していくのだ。この一時代を生きる者たちの抱える心情などが、切り離された、独立したものでありながらも、どこかですれ違っているという事実が“関わり合う”ということを強く印象づけるだろう。


 さらには、2004年パートの高校時代、“私”とクラスメイトの新保(渡辺大知)がプールサイドで話をしているところ、椎名が二人を水の中に突き落とす。さらにその椎名を別の生徒が突き落とし、気がつけばクラス皆が水の中で押し合いへし合いを演じているというものがある。ここも人々の関わり合いを示すものとして象徴的で、強く印象に残るだろう。他者との関わりなくして青春はありえない。


 青春時代を思い出してみてはあの頃を懐かしみ、現在の自分とはまた違う、ありとある別の可能性を夢想してみたりもする。この物語の登場人物たちは、かつて高校生だった誰かの(私たちの)いくつもの可能性をも示している。そこには正解などないのだ。最後には「人生を楽しむこと。幸せを感じること」というオードリー・ヘップバーンの言葉が橋本愛の声を通して語られる。そして、皆がそれぞれ口ずさむ歌からは、自分の歌い方で、自分の歩き方で、人生を楽しんでいけばいい。そんなことをそっと教えられるのだ。


(折田侑駿)