トップへ

サリンジャー作品の登場人物のようで愛おしい 『マイ・プレシャス・リスト』世界の美しさと醜さ

2018年10月28日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 映画『マイ・プレシャス・リスト』は、あまりに頭脳明晰なため、14歳にして飛び級でハーバード大へ入学した女の子、キャリーを描いた物語だ。大学を卒業してもまだ19歳と若さあふれる彼女だが、いまは無職ひきこもりの状態。定期的に通うセラピスト以外には顔を合わせる相手もいない。天才であると同時に繊細さを持つ少女にとって、14歳の年齢で大学生になることは辛い経験であり、心に傷を残したようである。セラピストのすすめで、大晦日までに6つの課題をクリアするようにとリストを渡された彼女。ペットを飼う、子どもの頃に好きだったことをする、デートに出かける……。半信半疑でリストをひとつずつクリアしていくキャリーは、あらたな人間関係を築くと同時に、過去に向き合う勇気を持ち始めていく、というあらすじである。


 主人公のキャリーが文学少女、読書好きということで、劇中さまざまな作家や思想家が登場するが、わけてもサリンジャーへのオマージュは印象的だ。彼女がかつて好意を寄せた男性に貸した本が『フラニーとゾーイー』であり、この本をめぐるやり取りが後半で重要な役割を持つ。社会から孤立して行き場のない主人公が、ニューヨークの町をさまよう展開もまたサリンジャー的である。天才少女という設定は、まさしく『フラニーとゾーイー』を含むグラース家サーガ(7人の天才兄弟を描く連作の物語)をなぞっているし、彼女が金魚を飼うというモチーフも、どこか『ライ麦畑でつかまえて』に出てくる「秘密の金魚」を連想させる。キャリーが抱える問題は、サリンジャーがフラニーという若い女性を通じて描いたテーマに重なり、なぜ彼女が『フラニーとゾーイー』を愛していたかに呼応している。監督のスーザン・ジョンソンは、「キャリーはまるで女性版ホールデン」(劇場用パンフレット内記述、ホールデンは『ライ麦畑でつかまえて』の主人公名)と述べており、本作をサリンジャーの小説世界と重ねながら製作していったことがうかがえる。


 小説『フラニーとゾーイー』で、若き女性フラニーは演劇を志していたが、演劇部をやめてしまっている。役者を志す者がみな、どうすれば成功できるか、いかに周囲より目立つかとそればかり考える卑しい風潮にうんざりしていたためだ。「誰も彼も、何でもいいからものになりたい、人目に立つようなことなんかをやりたい、人から興味を持たれるような人間になりたいって、そればっかしなんだもの、わたしはうんざり」と怒りをあらわにするフラニーは、演劇を目指すのであれば、純粋に表現へ取り組まなければ嘘だと信じている。そして同時に、自分にも周囲と同じエゴ、すなわち演劇で注目を浴びたいという下品な欲望があることを認め、自分を恥じる。「わたしがすごくみんなから認めてもらいたがるような人間だからって、ほめてもらうことが好きだし、みんなにちやほやされるのが好きだからって、だからかまわないってことにはならないわ。そこが恥ずかしいの。そこがいやなの」。こうしてフラニーは演劇の世界から去った。むろん、特別な存在になりたい、名声を得たいという下心など誰でも持っていて当然だが、彼女にとってはどうにも耐えがたかったのである。フラニーの言うことはそれなりに正論ではあるものの、あまり現実にそぐわないし、容赦なく他人を裁く残酷さもある。しかし誰しも一度は、純粋でありたいという気持ちを抱いた経験があるだろうし、彼女の潔癖さは理解できるかと思う。


 そして本作のキャリーもまた、他人のずるさや不純を見つけては厳しく断罪せずにいられない潔癖さを持つ。きまじめだが、傲慢とも呼べる。くわえて19歳という年齢もまた、若者ならではの鋭敏さが色濃く残るタイミングであり、結果として『マイ・プレシャス・リスト』という作品に青春映画らしい性急なテンポをもたらす。大人になると、他人の矛盾や間違いをまっすぐには批判できなくなるものだ。世の中はおおむね理屈に合わない場所だと妥協しながら生きる態度を、成熟と呼ぶべきか、堕落と呼ぶべきか……。たとえば劇中、キャリーの母親はすでに死んでしまっていることが示されるが、その後父親は単身赴任中のイギリスであらたな女性と出会い、再婚を考えていることがわかる。不意打ちでその事実を知らされたキャリーは父親に反発するのだが、再婚で父親を責めても仕方のないことではないかと、観客は父親に同情するだろう。


 人は誰しも、生きていく中で他者と出会ったり別れたりするもので、たとえそれが周囲から賛同を得られなかったとしても、出会いや別れを止めることはできない。時には愚かな失敗もするし、人には言えない問題を抱えてしまう場合もある。他人に指摘されれば反論のしようがない矛盾や欠点を抱えつつ、それでも日々を生きていくほかないものだ。そうした矛盾に対して、身も蓋もない正論を振りまわすキャリーは、まさにサリンジャー作品の登場人物のようで愛おしい。19歳の若さならそう思うことも許される、という絶妙なキャラクター設定がキャリーにはあり、彼女の存在感がもたらす愛おしさにつながってもいるだろう。


 セラピストの男性が渡す課題のリストは、キャリーを現実へと引き戻すきっかけとなる。リストが具体的に何らかの効果を持つかどうかは、さして重要ではない。大晦日に誰かとすごすことが人生を劇的に変えるわけではなくとも、リストがもたらす強制力こそが意味を持つのだ。それは『フラニーとゾーイー』で、フラニーの兄ゾーイーが語った「それにしても活動したほうがいいぜ、きみ。回れ右するたんびにきみの持ち時間は少なくなるんだ」という言葉を連想させる。世界へ飛び込め、と兄は妹へ伝える。同じように『マイ・プレシャス・リスト』は、思い切って世界へ飛び込んだキャリーが出会う人びとの美しい面、醜い面を同時に描いていく。こうしてニューヨークを舞台にした青春映画が、アメリカ文学の良質なエッセンスを汲み取りながら描かれるようすに、海外文学ファンとして素直に嬉しくなるのだ。(文=伊藤聡)