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力強さのベースにある“女の子”の感性とテーマ 山戸結希監督の才能の謎に迫る

2018年10月28日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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「映画の神に愛されている…!」


 多数のCMやミュージックビデオを撮り、また自身のような女性若手監督たちを集めた短編オムニバス映画『21世紀の女の子』(2019年公開予定)の監督兼プロデュース、さらには新作『ホットギミック』(2019年公開予定)など、現在最も注目され多忙な山戸結希監督。彼女の映像作品を初めて目にしたとき自然に浮かんだのが、このフレーズだった。


参考:『溺れるナイフ』は究極の少女マンガ映画だーー山戸結希監督、文法を逸脱した映像表現の力


 『おとぎ話みたい』(2013年)で見せた、音楽とダンスとナレーションの融合による凄まじい高揚、『溺れるナイフ』(2016年)の鮮烈な映像の連続には、20代の映画監督としては、世界的なレベルで見ても「規格外」といえる力がこもっていると感じられる。その圧倒的な才能から、同じく20代で才能を開花させ、実験映画の傑作を撮りあげたマヤ・デレン監督をすら思い出させた。


 どんなにつまらない映画作品にも、偶然に素晴らしいショットがひとつやふたつ撮れていることがあるが、山戸監督作品からは、目が覚めるように“きらめく”カットが次々あふれるように現れる。いったい、それはどのような仕組みによるものなのか。ここでは、そんな彼女の才能の謎について考察してみたい。


 「イマジナリーライン」という映画用語がある。これは、画面の中に置かれた被写体同士をつなぐ「線」があると仮定する考え方だ。カットが切り替わるときに、カメラ位置がその線を越えてしまうと、向きが逆転してしまうので、観客を混乱させてしまうという。劇映画を撮影するときの基本のテクニックだといわれる。


 『溺れるナイフ』でギョッとしたのは、例えば主人公やクラスメートたちが教室で会話しているシーンだ。セリフを発するごとに、彼女たちのアップが次々に写されるが、イマジナリーラインを越えてカットをどんどんつながれていく。これによって、目を合わせている者同士が同じ方を向くため状況がつかみにくく、一見すると不要な分かりにくさを呼び込んでいるように感じられる。


 状況説明などに優先順位を置かない、このような“文法破り”の手法は、より感覚的な映像体験を呼び覚まそうとするミュージックビデオに近いと、とりあえずいえると思う。しかし彼女の映画がそれだけで理解できないのは、長回しなど従来「映画的」といわれる撮影をも前後に組み合わせているからだ。


 被写体となる彼女たちを写す角度はどうやって決まるのか。それは、光の反射や背景、顔の造形や表情を含めた、画面の美しさなのではないか。撮影の瞬間、「この横顔や背景がいい」などと思ったら、理屈抜きにその角度を撮影してしまう。だから、カットをつないでいくにしろ、長回しにしろ、画面の輝きや俳優の感情を優先した、主観的でハッとさせるような絵づくりができるのではないだろうか。


 状況の説明は最小限に、とにかく見せたい絵を連続して見せてゆく。この手法は「少女マンガ」に多く見られる演出を思い出させる。少女マンガは、その文法に慣れない読者には、コマ構成が難解で読みにくいことがある。だが慣れてしまえば、それらは世界を主観と客観で捉えた、感覚的な表現方法だということを理解し、それを描くために進化した複雑なコマ構成の価値も理解できてくるだろう。YouTubeなどで公開された、山戸監督の短編『玉城ティナは夢想する』(2017年)で見せる、写真をカットの隙間に差し込んでいく、実験映画のような演出にしても、そういう世界観がベースにあることが、見ているうちにだんだん分かってくる。


 このような世界観、手法は、映画にとって、果たして「異端」に数えられるものだろうか。むしろ、このような描き方こそが、映像を平面に投影して、主人公たちや、つくり手の想いを観客の心に届かせる映像作品という表現の正しい運用なのかもしれない、という気さえしてくる。だから山戸監督の表現には、従来の常識を超えたような力が宿っているように感じられるのだ。


 『溺れるナイフ』では、冒頭から流れる、作詞・作曲、大森靖子による楽曲の、「絶対女の子がいいな」というフレーズが印象的なように、また自身がプロデュースする『21世紀の女の子』というタイトル、さらには山戸監督のインタビューや、彼女によって書かれた、作中の少女たちによる独白などから分かるように、山戸作品に共通しているのは、「女の子」というテーマだ。


 山戸作品に登場する女の子は、登場人物にでなく、観客にでもなく、虚空に呼びかけるように自身が純粋な「女の子」であり、女の子として世界に触れている実感を叫び続けているように感じられる。そのとき、映画は観客へのサービスを超えた、宗教的な荘厳さを獲得したようにすら思えてくる。


 女性は、「女の子」であることを経験し、その時期を通り過ぎて、いつかは大人にならなければならない…というように考えられている。そして往々にして、女の子が大人の女性に変わるとき、何かを捨て去らなければならないとも考えられている。


 樋口一葉の小説『たけくらべ』(1896年)は、遊廓のある吉原の子どもたちを描いた小説である。主人公・美登利(みどり)は、活発でいきいきと輝いている女の子だ。だが彼女は近い将来、遊女になるという運命を背負っている。子どもの世界から大人の都合が支配する世界へ。その狭間に立った美登利は、持ち前の利発さや元気を失い、ただ恥ずかしそうにうつむく性格になってしまう。彼女はこのように嘆く。


「何時(いつ)までも何時までも人形と紙雛さまとをあひ手(相手)にして飯事(ままごと)ばかりして居たらばさぞかし嬉しき事ならんを、ええ厭や(いや)厭や、大人に成るは厭やな事、何故このやう(よう)に年をば取る」


 封建的な社会に生きる女性は、大人になるときに、自分の意志で生きること、主体性を一部手放さなくてはならない。そして遊んでいた人形を捨てて、自分自身が男にとっての人形のような存在になることを余儀なくされてしまう場合がある。


 芸術に身を捧げるには、ときに経済的に困窮する覚悟をしながらも、“遊び”の心を持たなければならない。つくり手自身が感動したり面白がる心を持たなければ、受け手の心を揺り動かすことはできないのだ。歴史的に、いつまでも子どもであることを社会のなかで許されてきた男に比べ、女はいろいろな意味で歴史的にそれが許されなかった部分がある。童謡詩人の金子みすゞなどは、その代表的な被害者である。


 このような慣習は現代にも根深く残存する。ことに日本では、大人になることは社会の常識を受け入れることと同義と考えられているため、社会そのものが封建的であれば、女の子を卒業したときに、その創造性や才能は蹂躙されてしまうことになる。そんな社会に生きる女性は、「女の子」という短い期間でしか、才能の羽根を十分に広げることができない。女性が個人でそこに対抗する方法は、もはや“女の子を卒業しない”ということしかないのかもしれない。


 山戸監督が描いてきた、地方の女子高生などは、まさに環境によって輝きが失われていくだろう存在であり、そこで抗い戦っている女の子たちである。だから、女の子が女の子の感性で映画を作るという『21世紀の女の子』という企画を、山戸監督が主導するというのは、よく理解できる流れだといえよう。


 山戸結希監督作の力強さのベースにあるのは、女の子の感性であり、そのテーマにの中心に据えられているのもまた、「女の子」である。女の子が女の子を描く。このシステムによって山戸監督は、少なくともこの分野において無敵の状態でいられるし、この姿勢がブレない限り、重要な作品を作り続けられるだろう。そして、そんな女の子の姿を見せることで、後進の女の子たちの道をも切り拓いているといえるのだ。(小野寺系)