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二分された“東京”と“地方”は何を意味する? 『ここは退屈迎えに来て』が描く人々の心の事情

2018年10月27日 06:02  リアルサウンド

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 地方都市近郊の国道によく見られる、広い道路とその両側にチェーン店が並ぶ風景。地方で生活する多くの人々が日々目にしているが、この眺めを映画作品のなかで見る機会は少ない。実際の店舗名が次々に出てきてしまうという事情もあるのかもしれないが、この風景が映画で描かれにくい最も大きな理由は、それがあまりにもありふれた、つまらないものだと考えられているからであろう。どうせ田舎を映すのであれば、里山や港町の方が圧倒的に“映画的”である。


参考:橋本愛が語る、『告白』と上京当時の思い出 「日活撮影所に行くと胃が痛くなってしまって」


 広い駐車場に大きな看板のかかったラーメン屋や書店、学校帰りの学生たちが利用する場末のゲームセンター、田んぼに囲まれぽつんと立ったラブホテル、地方限定のファミリーレストラン。原作者・山内マリコ(『アズミ・ハルコは行方不明』など)の出身地でもある富山県で撮影した、映画『ここは退屈迎えに来て』の舞台となる風景は、日本各地の同じような規模の地方都市のそれとほとんど変わらないように見える。私自身、自分が生まれ育った別の地方都市がそのまま映っていると錯覚したくらいだ。


 しかし、本作『ここは退屈迎えに来て』で、あらためて大きなスクリーンを通してこれらの光景を眺めたとき、意外にも一種の感動を与えられたことも確かだ。なぜなら、これこそがある意味で現在の日本を代表する風景だと思えるからである。


 大都市・東京の人口は約1000万人で、大阪と合わせても2000万人に満たない。本作のような光景が見られはじめる郊外を除けば、この風景に普段全く触れないような人々というのは、さらに絞られてくる。それは日本全体からすればごく少数派といえよう。逆に農村地帯は過疎化で人口が減少し続けているため、たいていの日本人は、本作で描かれているような各地方都市に分散していることになる。さらにそこでは乗用車が交通手段となる場合が多いことを考えると、典型的な日本人を描くなら、こういう舞台を選ぶのが、むしろ一般的であるはずなのだ。


 原作となった同名の短編集は、まさにこのような地方に生きる主人公たちの物語だ。劇団MCRを主催し、ラジオ、TVドラマの脚本を手がける櫻井智也は、プロデューサーや廣木隆一監督の要請によって、これら複数のエピソードを、『パルプ・フィクション』のように時系列を組み換えつつ、一つの群像劇としてまとめている。2004年、2008年、2010年、2013年と、それぞれの年で描かれるのは、地方都市の日常と、そこで生きる若者の恋愛模様である。彼らのなかには、「東京」と「地元」という価値観が強く根ざしている。


 「何者かになりたい」と東京に出たものの、地元に帰ってきてタウン誌にお店情報などの記事を書いている27歳の「私(橋本愛)」や、仕事仲間のカメラマン・須賀(村上淳)は地方に生きる、いわゆる東京からの「出戻り組」である。「私」たちはその日の仕事を終えると、須賀の運転する車で、高校時代の親友サツキ(柳ゆり菜)とともに、当時学校のスター的な存在だった、憧れの「椎名」という同窓生に久々に会うため、彼の職場である自動車学校へと向かう。


 その車中で、ずっと地元に住んでいるサツキは出戻った2人に対し、「東京に行けていいな」と繰り返す。「私」も須賀も、大きな成功はおさめられずに帰ってきているのでバツが悪そうにするが、サツキはそれでも「戻ってきたとしても、東京にいたことで人生に深みが出るよね」と言う。そうまとめられてしまうくらい、彼女たちは地元ではありふれた典型的存在として認識されているし、何か東京には魔法のような力があると、漠然と考えられている向きがある。


 出戻った「私」は、東京に暮らし続けることが物理的にできなかったはずではないだろう。彼女はなぜ地元へ帰ってきて、サツキは憧れの東京に行かなかったのだろうか。その謎は高校時代を描く過去の場面によって、少しずつ分かってくる。


 「私」やサツキの憧れであり、同じ学校出身のもう一人の「あたし」(門脇麦)と一時期つき合っていた「椎名(成田凌)」は、人当たりが好くカリスマ性があり、クラスの誰もがなんとなく目で追ってしまうような魅力がある人物で、いわゆる「スクールカースト」と呼ばれる序列の頂点にいる。それでいて、新保(渡辺大知)のように、文庫本を持ち歩き読書するような、学生生活のなかで序列が下だと思われている学生にも気さくに声をかける。


 舞台となる各年の地元で生きる登場人物たちは、学校を卒業した後も、そんな椎名という存在に、大なり小なり精神的に縛られているようである。ただ椎名本人は、高校時代からほとんど虚無といえるまでに内面的な空疎さを抱えている。「ずっと高校生でいたい」と話していたように、彼は彼で、実体の無い王子さまを演じていて、そこでしか生きる意味を感じられなかったのかもしれない。高校という舞台が失われると、彼は“みんなの心の中の高校時代の王子さま”であり続けるものの、それは卒業以降の彼とは、すでに遠く隔たったものでしかない。


 それが短い期間だからこそ、高校時代の思い出は光り輝いて感じられる。高校時代に椎名という存在がいて、その輪のなかで学生たちは、一時だけ最高の経験をした。この思い出が強い磁力となって、彼女たちを意識的であれ無意識的であれ、「東京」に代わる存在として地元へと引き寄せていたのである。その意味において、もはや「椎名」は個人ではなく、ある種の役割であるといえよう。その存在は、「憧れ」だったり、「やり残したこと」だったり、「思い出」だったり、「棄て難いもの」を総合した象徴として、本作の地方在住者たちをその場に縛り付けている。本作が描いていたのは、そんな人々の心の事情である。


 それを最も強く集約し、そして対照的に描いているのが、高校生たちがプールで大はしゃぎするシーンであり、本作の劇伴も務めるロックバンド、フジファブリックの「茜色の夕日」(2001年)を、卒業後のそれぞれの登場人物が独りで歌うシーンである。この廣木隆一監督による一種のスペクタクル演出は、作品の性質からすると少し雄弁過ぎるように感じられる。その感覚の差違には、原作者と隔たった年齢の差というものもあるだろう。しかし、そのことが作品を逆に良い方に向かわせていると感じさせる部分もある。


 それはラストシーン、ただ一人椎名の磁場を離れた人物が登場する箇所である。その人物は、携帯電話にかかってきた椎名の着信を無視して、ビルの屋上で東京の景色を独り眺めている。視線の先にあるのは、本作で散々登場した、ありふれた日本とは異なる光景だ。この場所において、椎名というイメージはもはや必要ない。


 ただ、そこでつぶやかれる「超楽しい」ということばは、新しく変貌を続ける街を象徴する、東京スカイツリーが屹立する街並みを眺めながらも、なにか虚ろに響き、空へとかき消されていく。その一抹の寂しさからは、東京はそんなにも良いものなのかという、ささやかな疑念を観客に与えている。


 大都会とはいえ、世界的な視点で見ると、そこは極東の島国の人々が密集する場所に過ぎず、真に進歩的な場所かと言われると頷きづらい。本作の地方在住者たちが期待するような何か特別な力とは、そこに住む一握りの人間しか持ち得ないものなのだ。その状況は、本質的には地方も都会も変わらないはずである。椎名というイメージが実体の無いものだったように、そこは魔法の場所というわけではない。


 夏目漱石の小説『三四郎』(1908年)では、熊本から上京する汽車のなかで、希望に燃える主人公が、洋行し世界を見ている人物に「日本は滅びるね」と言われ衝撃を受ける場面がある。


「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より頭の中の方が広いでしょう。囚われちゃだめだ。いくら日本の為を思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」この言葉を聞いた時、三四郎は真実熊本を出た心持ちがした。(『三四郎』より抜粋)


 本作での東京と地方という二分は、地理的な問題というより、「独立心」と「依存心」という、心の象徴として機能している。東京に住んでいても依存心が強い人はいるし、地方に住んでいても独立した心を持っている人はいる。その真実を映像と役者の演技によって集約させた、文学的な含みを感じるバランスのとれたラストシーンには、監督や脚本家の底力が感じられた。(小野寺系)