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ハリウッド大作で相次ぐ監督降板にある背景は? 「クリエイティブ上の意見の相違」について考える

2018年10月16日 10:22  リアルサウンド

リアルサウンド

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 今年8月21日、多数のアメリカの映画業界紙が、『007』シリーズ新作の監督に決まっていたダニー・ボイルの降板を報じた。それからちょうど1ヶ月後の9月20日、『ビースト・オブ・ノー・ネーション』(2015年、Netflix)で知られるキャリー・ジョージ・フクナガがそのポストを引き継ぐことが発表された。現在Netflixで配信中の『マニアック』(2018年)の監督も努めるフクナガは、現在ハリウッドでもっとも注目されている監督の一人と言っても過言ではないが、そんな彼も実は昨年ワーナー・ブラザースより公開されたスティーヴン・キング原作のホラー『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』(2017年公開)の監督を2015年に降板している。また、今年6月に公開された『ハン・ソロ/スター・ウォーズ・ストーリー』も、フィル・ロードとクリス・ミラーによる共同監督から、ロン・ハワードへと交代し、再撮影を行っている。ハリウッドきってのビッグフランチャイズでの監督降板が相次いだ形であるが、最近の、ハリウッド大作からの監督の降板は、この2作だけではない。


参考:ハリウッドだけの問題ではないことが浮き彫りに カンヌ映画祭に見る、映画業界が直面している課題


 アメリカのエンターテインメント情報サイトのVultureは、昨年12月に「2017年は映画監督交代の年」と題された記事を出した。記事中で挙げられている通り、確かに9月には『スター・ウォーズ エピソード9』からコリン・トレボロウが去り(新しい監督は2015年の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を手がけたJ・J・エイブラムス)、さらには、イギリスの世界的ロックバンドQueenとそのフロントマン、フレディ・マーキュリーを描いた伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』(2018年11月9日日本公開予定)も、ブライアン・シンガー監督の降板があった。


 加えて2018年も含めた前後の数年を見ると、例えば現在製作中のサンドボックスゲーム『Minecraft』の実写化映画ではロブ・マケルヘニーが降板した。DCユニバースの『フラッシュ』では、セス・グレアム=スミスから『DOPE/ドープ!!』(2015年)で大きな注目を浴びたリック・ファムイーワに、そこからさらに、ジョン・フランシス・デイリーとジョナサン・ゴールドスタインの共同監督へと交代になった。全世界で大成功を納めた『ワンダーウーマン』(2017年)も、ミシェル・マクラーレンが降板してパティ・ジェンキンスに決まったという経緯がある。


 上に挙げただけでも、ここ数年のビッグタイトルでのハリウッドでの監督降板の多さが伝わったことと思うが、監督の降板自体は、ハリウッドでは昔から珍しいことではなかった。1939年に公開された『オズの魔法使い』では、撮影開始から2週間でリチャード・ソープが解雇され、さらにジョージ・キューカー、ヴィクター・フレミングと監督が代わり、最終的にはキング・ヴィダーが映画を完成させた。また、『風と共に去りぬ』も、『オズ~』と全く同じジョージ・キューカーから、ヴィクター・フレミングへと変わっている。ただ、上であげたような近年の作品で際立つのは、その多くがワーナー・ブラザース、ソニー、FOX、ディズニーなど、メジャースタジオによる作品であり、とりわけ『スター・ウォーズ』や「DCユニバース」といったスタジオの稼ぎ頭のフランチャイズである。また『ボヘミアン・ラプソディ』のように、11月というアカデミー賞を控えたアワードシーズンでの公開に合わせた作品もある。


 ではそんなハリウッドの大作で相次ぐ監督の降板にある背景は何だろうか? 監督の降板が発表される際、その理由として「クリエイティブ上の意見の相違」と言われることが多い。一般的にメジャースタジオが持つフランチャイズの新作を企画する際、これまでの経歴やスケジュールなどを考慮した上で、監督の候補リストを作り、そこから候補者たちにオファーを送る。そして各監督によるスタジオ側へのプレゼンなどを経て、決定に至ることが多い。監督の人選は非常に重要で、作品のストーリーやスクリーンに映るビジュアルを作り上げるだけではなく、特定の監督と仕事したいと思う俳優も多いことから、キャストの善し悪しも決める。一つの作品において監督が果たすこれら役割の大きさが、「映画は監督のもの」などと言われる所以であるが、さらにビジネス面では、興行収入も大きく左右することも多い。しかし、メジャースタジオが抱える上のようなフランチャイズ作品の場合は、必ずしも「映画は監督のもの」という状況は当てはまらない。


 先述のVultureの記事の中で、ハリウッド映画業界に長く携わってきたある匿名の監督は、ハリウッドの大作映画における監督の立場について、「監督の立場が小さくなりつつある。商品化、ブランドタイアップ、玩具などが、今スタジオがもっとも集中していることであり、ストーリーティングに目を向けるのは最後の最後だ。誰も追随できないようなトップ5にでも入らない限り、奴隷扱いと一緒だ」と述べている。


 奴隷とまで言えるかどうかはともかく、各スタジオにとって、フランチャイズやユニバース、いわば目玉商品を、映画作品としてだけでなく、ブランドとしてどうマネージしていくかが、かつてないくらいに重要と考えられているのは確かだろう。『スター・ウォーズ』シリーズや「DCユニバース」などの作品たちは、各スタジオの「テントポール作品」と呼ばれる。つまりスタジオという大きなテントを支える太い柱なのであり、スタジオたちは既存のフランチャイズを長続きさせ、次の「ユニバース」を発見することに躍起になっている。そういった作品の監督に求められていることは、映画好きの間のみで語り継がれるようなカルト的アート作品を作り上げることではない。より多く大衆に認知され、確実に興行収入をあげることである。そこにはスタジオの戦略がより強く反映され、それ故にスタジオ側のビジョンと共存できない監督は「クリエイティブ上の違い」があるとして、別の監督と交代させられるのである。


 2015年に公開されたマーベル作品の『アントマン』を降板したエドガー・ライトは、降板の理由について「一番聞こえが良い理由は、自分はマーベル映画を作りたかったが、スタジオ側はエドガー・ライト映画を作りたくはなかったということ」と語っているが、まさに上で書いたことの良い例ではないだろうか。ハリウッドのスタジオ映画においては、監督は基本的には雇われの身であり、力関係で言えばスタジオの方が強いのが通常である。最終的に公開されるバージョンである「ファイナルカット」を決めるのもスタジオならば、フランチャイズへの権利を持つのも、もちろんスタジオであり、大規模なスタジオ映画は、最初から監督ありきのものではないのである。一方、そういった作品を観に来るオーディエンスは、時にフランチャイズの中で監督独特の世界観が発揮されることを望んでいるもあるのは皮肉なことである。その一つの成功例として挙げられるのが、クリストファー・ノーラン監督による、『ダークナイト』3部作ではないだろうか。


 ここ最近はこれらの「クリエイティブ上の違い」に加え、もう一つの監督降板の理由が目につくようになっている。『ガール・オン・ザ・トレイン』(2016年公開)の監督で知られるテイト・テイラーが、これまでマシュー・ニュートンが監督として製作が進行していた『Eve』(邦題、日本公開日未定。主演:ジェシカ・チャステイン)の監督に決定したというニュースが、アメリカの映画業界紙Varietyで報じられた。その理由は、過去に交際していた女性たちへの暴行やDVに関するスキャンダル、ということであるが、これは映画監督に限らず、#MeTooや、Time’s Upといったムーブメントの中で、多くのプロデューサーやスタジオのエグゼクティブが過去の過ちを告発され、今いる地位を失うことが増えている中、今後も同様のケースは見られるだろう。


 今後も、フランチャイズに頼るスタジオへの傾向が変わらなければ、「クリエイティブ上の違い」によるビッグタイトルでの監督の降板は続いていくだろう。そこに残るのは、楽しみにしていた映画から、自分の好きな監督が降りたと知ったオーディエンスたちのショックだけであろうか。最近公開される映画の傾向の一つとして、アート性の高いインディペンデント系映画と娯楽性の高い大規模映画のスタジオ映画により大きく二分していると言われるが、たとえ娯楽性が高いものであろうとも、映画が表現の媒体であることに変わりはない。毎年数多くのシリーズものやフランチャイズからの新作が公開される中、監督のクリエイティブなビジョンが、再び力を取り戻す日は来るのだろうか。(神野徹)