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宮台真司の『寝ても覚めても』評:意味論的にも視覚論的にも決定的な難点がある

2018年10月04日 20:41  リアルサウンド

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【キスと性交を描かない(描けない)真の理由】


 『寝ても覚めても』の物語は単純です。主人公朝子が、1.激しい恋に落ちた麦(ばく)に逃げられた後、2.瓜二つの亮平に出会い夢中になるものの、3.やがて麦と再会して駆け落ちし、4.しかし最後は思い直して亮平の元に戻る。「瓜二つの男に夢中になる」と駆け落ち後に思い直して戻る」という契機が、「意味論的・視覚論的に説得的かどうかがポイントです。


参考:宮台真司の『愛しのアイリーン』評:「愛」ではなく「愛のようなもの」こそが「本当の愛」であるという逆説に傷つく体験


 最も素晴らしかったのは、朝子が亮平らと会食をしているときに麦が突然現れ、朝子を奪い去るシーンです。麦はまず亮平を見、「この男は朝子に、どれだけのものを与えられるのか」と値踏みする。そして、「この程度の男なら、自分が朝子に手を差し出せばついてくる」という確信を持った──このプロセスが視線の劇で分かる。演出力があります。


 男が他の男を値踏みしてその場で女を奪うーー濱口竜介監督はこのシーンに賭けたのでしょう。成功しています。1つのシーンに全てを賭ける映画があっていいと僕は思います。でも、そのことを踏まえても、映画には決定的問題が幾つかあることが気になります。それをクリアすればもっと素晴らしい作品になっただろうという意味で、率直に指摘します。


 まず意味論な説得性から語ります。結論的には説得性を欠きます。官能文学やエロ小説では双子の姉妹や兄弟を相手に性交する話が繰り返し描かれてきましたが、双子の兄を好きになったから瓜二つの弟も好きになるという話はほぼ皆無です。理由は、外見が同じでも、キスの味や性交の仕方が違い、そのことで期待外れに大きく打ちのめされるからです。


 「似ている」ことから、表層の合致/深層の乖離」の意味論が生成します。具体的には、表層が惹起する期待を深層が裏切る」という事柄です。「似ている」は、現実には様々な次元で問題になり得ます。関西弁の男が初恋の相手だった場合、初恋に破れた後に別の男と「この人も関西弁だから」と付き合い始めれば期待外れが生じます。「どこが似ていても」同じです。


 表層(外面)と深層(内面)は異なるので、表層によって築き上げられた期待は深層に触れて裏切られます。これは「<世界>はそもそもそうなっている」というontological(存在論的)な摂理です。存在論的な摂理を敢えて無視して「表層だけを生きる」仕方もあり得ます。存在論を踏まえるrealism(実在論)に対し、敢えて無視するesthetism(美学)に当たります。


 朝子は顔が似ているという一点に受動的に引き摺られます。敢えてする美学がないという意味で「凡庸な女」です。凡庸であるほど期待外れに打ちのめされます。だから1.~4.の展開は本来あり得ません。だから嘘臭さを打ち消すべくキスも性交も描かないという意味論的・映像的戦略を採ります。謂わば少女漫画の戦略。有効なのは中高生相手に限られます。


 というのは、しかし過去の言い草です。ここ20年の性的退却は統計的に実証されています。今は、20年前の中高生レベルの観客が溢れます。男が違えばキスの味も性交の仕方(手順や愛撫法や挿入ピッチや持続時間)も違う。そもそも体臭が異なる。複数の男を知る女であれば自明に弁えているはずのこと。20年以上前であれば到底通用しない設定でしょう。


 実際に、映画を見た大学生や大学院生の反応は、キスや性交を消去することで辛うじて成り立つ意味論や映像に対して、違和感を抱く向きと、抱かない向きが、二分されます。そして僕が見るところ、違和感を抱くか否かは、彼ら彼女らの性的経験値に正確に対応しています。同じ問題を、別の側面に見出すこともできます。それを確認しておきましょう。


【映画の意味論に反発する女が目立つ理由】
 麦と亮平の対比は平明です。「超越系」(ここではないどこか)と「内在系」(ここ)との対比、「非日常愛」と「日常愛」の対比です。写真なんて分からないと宣う亮平と、牛腸茂雄の写真展を訪れる麦。お前のことをたぶん一生信用できないなどと中二病的な発言をする亮平と、亮平の元に戻りたいとする朝子の構えを一瞬で理解して一人旅立つ麦。などなどです。


 多くの恋愛は「非日常愛=ここではないどこか」として始まります。脳生理学によれば「非日常愛=情熱としての愛」は2年しかもちません。これを「日常愛」に変換できれば関係を続けられ、変換できなければ関係は終わる──といった認識に留れば、単なる男の願望です。以下に紹介するように、多くの女は「非日常愛」を断念せず、「別口で」確保しようとします。


 朝子の選択可能性を吟味しましょう。亮平は退屈な男ですが、麦であれば退屈しない。でも麦を独占できず、彼との関係を「日常愛」には変換できません。麦が「日常愛」の相手として相応しくない以上、「亮平と日常愛の関係を築きがら、麦を時々食べる」というのが多くの女のrealismになります。実際にそういう感想を口にする女が多数存在しています。


 それがいいか悪いかの規範に関係なく、「世界は確かにそうなっている」というontologyです。ontologyを踏まえて生きようとする通常の構えがrealismです。realismに則った場合、「起」=愛する麦が失踪、「承」=麦と似た亮平に出会って好きになる、「転」=麦が突然現れて車で逃避行、「結」=気が変わって亮平の元に帰郷、という展開は不自然なのです。


 「非日常愛」の男に逃げられ、容姿が似た「日常愛」の男にハマったが、「非日常愛」の眩暈が忘れられず、再会した「非日常愛」の男に再び傾斜したものの、「非日常愛」がどのみち続かない事実や「日常愛」の積み重ねが与えた機微を思い出し、「日常愛」への帰還を決意する……。「日常と非日常」即ち「法と法外」の構造に即せば、確かにありそうに思えます。


 でも単なるお話(メロドラマ)としてありそうなだけ。観客の一部がこれを不自然だと感じるのはrealismから外れるからです。観客の一部が踏まえるrealを統計的に示します。1970年代のモアリポートが報告した通り、日本人既婚者の婚外性交渉割合は先進国の中では高い。この20年で性的退却が進みましたが、婚外性交渉割合はむしろ激増しました。


 性愛研究の界隈では有名な2013年に実施された相模ゴムによるWEB調査を紹介します。「結婚・交際相手がいる人」のうち男の27%、女の16%に性交する浮気相手がいます。次に日本老年行動科学会の2000年と2012年の比較調査を紹介します。40代以上だけが対象ですが、男女とも全年代で「配偶者外の親密な関係を持つ割合」が激増しています。


 性体験率・交際率・交際経験率に注目する限り「性的退却」が著しく進んでいるのに、パートナーがいる男女に限って言えば浮気割合・浮気経験人数が激増して活動水準が上がっている「ように見える」のはなぜなのか。「ように見える」と但書を付けたのは、僕が2000年に設計したZ会名簿を用いた大学生調査のデータとの兼ね合いがあるからです。説明しましょう。


 それによれば「両親が愛し合っている」と答える男女と「性情報を家族や友人などの人間関係から得てきた」と答える男女は、そうでない男女に比べて「ステディがいる割合が多い」のに「性体験人数は少ない」。ここに性愛の交際の「密度」と「体験人数」が反比例する関係が見られます。密度が下がって頻度が上がった状態を活動水準が高いと言えるか疑問なのです。


 これらを踏まえれば、主人公・朝子が「超越系=非日常系」の麦と「内在系=日常系」の亮平の二者択一で悩むという設定は不自然です。大半の女は、「日常系」の男を手元に押さえた上、「非日常系」の男を「気分転換のために」時々利用します。良き妻や母であるためにこそ時々浮気をする──かつて関わったテレクラ・ドキュメンタリーで幾度も拾えた発言です。


 後の視覚論の伏線になるので、意味論の考察を深めます。女が「非日常」の渾沌を経て「日常」に戻るというのは男視座にありがちな願望に過ぎません。あれこれあって生活に「戻る」という通過儀礼図式は、今村昌平『赤い殺意』(1964)以来昼メロに継承された意味論の伝統です。今回の映画はそれを継承した──と考えるのであれば、『赤い殺意』の誤読です。


 通過儀礼は「離陸」「渾沌」「着陸」の3段階を辿りますが、人類学者が明らかにしてきた通り「離陸面」と「着陸面」は異なります。『赤い殺意』もそう。主人公貞子は生活に「戻った」のではなく「再帰的に関わるようになった」のです。「敢えて生活に関わる」ようになって選択肢が増えた(自立した)。どんな選択肢なのかを想像させるところが映画の醍醐味です。


 それを一口で言えば、いつでも生活を放棄できる自由を手元に置きながら、敢えて生活を送る生き方です。学問的に言えば、単なる「適応」から高次の「適応力」への転換。「主婦として生きる」生き方から「主婦になりすまして生きる」生き方へのシフト。ただし「主婦であること」の価値が下がるのではない。テレクラ主婦の発言通り、むしろ価値が上がるのです。


 以上のように、「日常愛」か「非日常愛」かの二者択一で主人公が悩むという設定は、少女漫画的=中二病的です。この映画を見た中高生の男女が、「やはり賢明な女は最終的には日常に戻るのだ」と思うならば、悪影響メディアになります。現実には、「いろいろあって戻る」の意味は、「曇、時々晴れ」ならぬ、「日常、時々非日常」という構えになるわけです。


【『めまい』に比べた視覚論的な鈍感ぶり】


 以上を踏まえた上で視覚論を取り込みます。この映画では、、麦に見えて、実は亮平だ」が成立しているのに、、亮平に見えて、実は麦だ」が成立しない、という非対称性が映像的に提示されます。この極めてスリリングな非対称性を、鏡の比喩で理解できます。比喩を正しく理解するには、、見る」能動性と、見える」受動性の違いを弁えなければなりません。


 「鏡を見る=覗き込む」のは能動的ですが、「そこに自分みたいな像が見える」のは受動的です。これを合して言語学では「中動的」と言います。中動性の理解に最適なのは「妊娠」です。「妊娠するべく性交する」事態は能動的ですが、「運良く妊娠する」事態は受動的です。妊娠を巡る女の構えは中動的です。「見る/見える」と「性交する/妊娠する」はパラレルです。


 次に、鏡の中に「見える」のは「自分であって自分でない何か」です。その意味で「鏡の中」と「鏡のこちら」は非対称です。これを踏まえると、「亮平」を「見る」営みは、「鏡の中」を、「見る」営みに相当します。「鏡の中」を「見る」とそこに「自分であって自分でない何か」が「見える」ように、「亮平」を「見る」とそこに「麦であって麦でない何か」が「見える」わけです。


 鏡を取り去ります。「鏡のこちら」だけが残ります。僕らは(顔や背中は見えないものの)自分の身体を「見る(ことで見える)」ことができます。「自分であって自分でない何か」は消えます。麦を「見る(ことで見える)」営みは、「鏡のこちら」を「見る(ことで見える)」営みに相同します。「見える」のは「麦でしかあり得ない麦」であり、亮平はどこにも見当たりません。


 人間の視覚体験に敏感な者が、かかる非対称性が孕む可能性と不可能性に鈍感であることは許されません。ヒッチコック監督『めまい』はマデリン(鏡のこちら)とジュディ(鏡の中)の非対称性の劇的な逆転を描きます。これは可能性と不可能性のシンメトリカルな逆転です。だからストーリーよりも主人公スコティの視覚体験を想像して人は眩暈に陥ります。


 『めまい』の監督が備えているような視覚体験への敏感さが『寝ても覚めても』の監督にあるでしょうか。ジュディ(鏡の中)がマデリン(鏡のこちら)に「見える」と思ったら、ジュディ(鏡の中)こそがマデリン(鏡のこちら)だったという反転。僕らが突きつけられている(突きつけられないことができない)のは、「コレ(現実)はコレ(現実)なのか」という問いです。


 更に深く入ります(専門的な言葉遣いはできるだけ避けます)。「コレはコレである」という自同律は、通常はそのように構えないとうまく生きられない(とされている)という意味でのrealismです。しかしこれを逆から見れば、「コレはコレである」という自同律によって、僕らはreal(だと通念によって見做されているもの)を、温存することになるのです。


 そうした通常的な営みを、僕らは「世界はもっと豊かに生きられるのに…」という観点から、「反動的だ」と批判すること「も」できます。『めまい』のストーリーはその意味で「反動的だ」と言えますが、主人公の視覚体験(として映画を通じて与えられる与件)つまり主人公に与えられた(と想像される)視覚的世界はこの「反動性」を木っ端微塵に打ち砕いています。


 でも、たかが映画です。つまり社会システムが与える「ontologyからの間接化装置」です。だからこそ、こうも言えます。僕らは「常に既に」システムによって間接化されており、全ての情報体験を「仮想現実の如きもの」だと見做せます。間接化とは「それでも生きていける」ということです。であれば、映画が「反動性」に付き合う必要など毛頭ないと言えます。


 「映画の中」だけの話ではない。僕らが「反動性」の拒絶によって多少は「うまく生きられい」状態になるのだとしても、「常に既に」僕らが社会システムによって充分に間接化されている以上、その「うまく生きられなさ」もたかが知れていると言えます。「常に既に」間接化されたrealを生きている以上、現実に鏡像と実像を反転させて生きられる可能性さえある。


 アマゾンのジャングルで狩猟採集を営む先住民と違い、システムによって間接化されたrealを生きる朝子は、「コレ(亮平)はコレ(亮平)である」という自同律を敢えて拒絶し、先住民的な意味でのrealを生きない(間接化されまくったrealを敢えて生きる=realismを拒絶する)ことが選択できるはず。古い社会で不可能だった「鏡の中を生きる」esthetismです。


 それが「亮平=亮平、麦=麦」という自同律を生きない朝子だとしたらどうか。それは「亮平を、麦の別の現れ(鏡像)」として生き続ける朝子です。ただし幾度も繰り返すように「麦を、亮平の別の現れ(鏡像)」として生きることはできません。理由は、亮平が「内在系」で、麦が「超越系」だからです。そこに、亮平ではなく、麦を遠ざけるべき、真の理由が生まれます。


 人は「内在(亮平)に超越(麦)を見出す(見える)」ことはできても、「超越(麦)に内在(亮平)を見出す(見える)」のは不可能。「ここ(亮平)」に「ここではないどこか(麦)」を重ねる動機があり得ても、「ここではないどこか(麦)」に「ここ(亮平)」を重ねる営みには動機があり得ないからです。エクスタシス(外に立つ存在)としての人間(ハイデガー)。存在界の摂理(ontology)。


【震災後のrealismが全く考察されていない】


 ここに至って僕らは「震災後のrealism」との、あるべきだった接続可能性を論じられます。誤解を畏れずに言えば、「これが続くと思っていたものが実は続かないという新しいrealism」。更にパラフレーズすれば、「続くと思っていたrealは実は存在しなかったという災後のrealism」。「改訂版朝子」こそ新しいrealismに適応した存在として相応しいのです。


 更に深く掘ります。「これがreal」という不動の前提がくつがえったのであれば、その不動の前提の上で「うまく生き延びる」ことを可能にするはずのrealism──例えば、亮平は亮平である」という自同律──には、実際に「うまく生き延びる」ことを可能にする機能が、(少なくとも思ったほどには)存在しなかったことになります。realismも所詮その程度…。


 震災前には、「鏡の中」は「鏡の中」、「鏡のこちら」は「鏡のこちら」という自同律的な輪郭づけが、「うまく生き延びる仕方=realism」にとって不可欠だと思われました。ところが震災後には、「自同律的な峻別を施したところで、どのみち外部からの反理由律的な介入(クァンタン・メイヤスー)によって、死ぬときは死ぬ」というontologyに目覚める訳です。


 だから「そんな凡庸なrealismを無視するぞ」と宣言するのが改訂版朝子になるのです。そうすれば、「震災後」を生きるというモチーフと、「鏡の中」を生きるというモチーフを、直結できます。かくて、「鏡の中」は「鏡の中」、「鏡のこちら」は「鏡のこちら」という自同律を無視し、「鏡の中」を「鏡のこちら」として生きる非反動的なラディカリスト・朝子が誕生します。


【豊かなモチーフになるはずが活かされない】


 他に気づいたことを話します。本作で残念だったのは活かせるはずのモチーフを活かしきれていないところ。それは反復のモチーフです。映画には、「動く水」(海辺や川辺)が繰り返し出てきます。チャイムの音(家やオフィスのそれ)も繰り返し聞こえます。携帯電話の着信の繰り返しも印象的です。何よりも重大な反復モチーフが以下のところに見られます。


 亮平に「乗り換え」てから、「亮平は」朝子を助手席に乗せて東北での震災ボランティアに向けて「北に車を走らせ」ます。麦との再会後の「駆け落ち」では、「麦は」朝子を助手席に乗せて実家に向けて「北に車を走らせ」ます。そして両方のシーンに共通して、車内で男から同じく眠るようにと声をかけられます。この反復モチーフを活かすとはどういうことか。


 このように「見掛けの営みが同じ」というモチーフを持ち込む場合、それゆえに生じる予感や期待の「違い」を利用して、「異なる営みが同じ見掛けであること」に、適応しようとしても適応できないとか、逆に抗おうとしても抗えないといった葛藤を、描くべきなのです。監督の師匠である黒沢清や黒沢が私淑するヒッチコックであれば、そうしたはずです。


 関連して言えば、同じ見掛けの出来事でも、場所性が違えば、場所性がノイズになることで、異なった出来事として現れます。更に言えば、1960年代に小説家のJ・G・バラードが、大岡昇平の影響下で述べたように、人の内面は、「風景によって浸透されることで」想像もできないものへと変貌します。この映画はそのことについても鈍感だと感じます。


 物語は東日本大震災を挟んでいます。だから、震災前の東京と、震災直後の東京との、場所性のrealの違いがあるはずなのです。震災ボランティアとして活動する東北の沿岸部と、震災後に直ちに元の相貌を取り戻した東京との、場所性のの違いもあるはずです。東京と、麦の故郷で亮平の転勤先でもある大阪との、場所性のの違いもあるはずなのです。


 この映画はそれを取り込みません。ただし「場所性による浸透」を必ずしも描く必要はない。ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』(1960)には、登場人物らの関係性の変化という本筋とは(一見)無関連に、ナポリの魚市場を二人の男と一人の女が徘徊するシーンが104秒に及び描かれます。そこでは無関連性がむしろ三人の関係性の輪郭を際立たせるのです。


 そうした表現を徹底的に擁護したのが映画批評家でもあった吉田喜重です。彼によれば、映画の本筋が確かに人間関係にあっても、世界の豊かさは人間関係に還元できません。だからこそ、世界は豊かなのに人間関係に登場人物や観客の注意が集中し過ぎている事実を、場所性が際立たせます。『太陽がいっぱい』の、無関連性という関連」の機能です。


 その点、冒頭で話した、性交を描かないことで、同じ顔にこだわるという表層の(しかし結局は反動的な)戯れが「ありそう」に見えるという錯覚が生じるのと同様、場所性をキャンセルすることで、無理筋のこだわりを含めた表層の戯れが「ありそう」に見えるという錯覚が生じます。いわば、表層劇を成り立たせるために深さのない世界が描かれているのです。(宮台真司)