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荏開津広『東京/ブロンクス/HIPHOP』第12回:ポップ音楽の主体の転倒とディスコの脱中心化

2018年10月02日 18:51  リアルサウンド

リアルサウンド

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 連載『東京/ブロンクス/HIPHOP』、しばらく間が空いてしまいました。これまでヒップホップ以前のポップ音楽とは何か? それはヒップホップとどう異なるのか? を書いてきたつもりです。今回で、そうしたヒップホップ前史は終わり、次回からは日本でのヒップホップの開拓者たち、DJ、ラッパー、そしてパーティのフロアで“ムーヴ”を始めたブレイクダンサーたちの姿に触れていくつもりです。続けて読んでいただけたらとても嬉しいです。


参考:ECDは思想家としてのラッパーだった 荏開津広による追悼文


■『ブギーナイツ』が描いた快楽の世界


 1997年の映画『ブギーナイツ』は、1977年のサンフェルナンド・バレーの夜から幕を開け、The Emotionsの「Best Of My Love」と共にカメラが観客を導く。心地よく乾いた町の空気のなか、自動車のボディとネオンの輝きが交錯する道路に沿って滑っていき、たどり着くのはディスコである。


 自分の店のディスコでモーリスがポルノ映画監督のジャックを見つけて「ジャック、ジャッキー・ジャック、ジャッキー・ジャック……ジャック……」と意味なく感極まったように、ディスコの人々もポルノ産業の人々も感覚的な内実に正直に生き、その感情を優先する。しかし、監督であるポール・トーマス・アンダーソンの意図においても、現実のディスコ空間においても、そこにはヒエラルキーがある。映画で後に私たちが立ち会うように、ディスコで仕事の打ち合わせが行われることもあれば、職探しさえもある。その中心にあるのは、ダンスだけでなく性に食にーーディスコはギリシア悲劇『バッコスの信女』の原型とさして変わらないような、快楽を欲する人々が作り上げたひとつの世界として描かれる。


 1970年代半ばから1980年代初頭にかけてのポルノ映画産業に繋がり、右往左往する人々の姿を描いたのが『ブギーナイツ』だが、実際の当時の爆発的な流行としてディスコがあった。今回はなぜディスコの流行が終わったかを記す。


■アイザック・ヘイズの方法論


 『ブギーナイツ』で描かれたのとちょうど同じ時期に公開された『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(1967年)や『華やかな情事』(1968年)といった犯罪映画やメロドラマの枠組みのなかで、映画の根本的な構造に孕まれる主題が見直されスクリーンに映し出されたように、1960年代のカウンターカルチャーの時代には、ダンスミュージックの分野でポップ音楽の構造全体を脅かす幾つかの問題についての取り組みが始まった。


 アートの形式と繋がっていく主題を意識することが、筋書きだけなく『ポイントブランク』のリー・マーヴィンやアンジー・ディキンソンの演技に明記されている正確さに投影されたように、1960年代後半からポップ音楽も徐々に後戻りなしのメタモルフォーゼに誘われていく。歌詞の問題についてはまた別に記すが、そこにはまず反復への意識的な取り組みがあったーー反復がダンスミュージックのみならずロック/ポップ音楽の大きな特徴であることは、これまでも数えきれないほど指摘されてきた通りだ。


 1960年代、ジェームス・ブラウンのライブショーやSly& The Family Stoneのレコーディングなどから窺えるように、サイケデリックな夢幻状態とも繋がったR&B/ファンクの“ビートがより強く/曲がより長く” なる傾向が始まっていた。1969年にアイザック・ヘイズはこれをお茶の間に持ち込んだ。アルバム『Hot Buttered Soul』で、まるでアナログの写真を拡大し引き伸ばすように、3分足らずのラウンジポップだった「Walk On By」を12分に、驚くべきことにカントリー&ウェスタンの「By The Time I Get To Phoenix」を19分にしてカバーしたのだ。


 後にディスコに取り入れられ、意地悪な意見を持つ人間の口にするところの“軽薄な流麗さや安手のきらびやかさ”を生み出す、このリズムやメロディの反復とオーケストレーションの組み合わせは、当初は政治的な含意の十分ある用法であった。もとより、比較的軽めなジャズボーカルなどの分野は、ラウンジや映画音楽と近接もしていただろう。しかしながら、アイザック・ヘイズのようなヘビーウェイトの具体的な身体性を伴っての『Hot Buttered Soul』は、それらを遥遠に眺める異世界のように屹立している。


 アイザック・ヘイズは3分足らずのポップ音楽のフォーマットに則った曲を12分、もしくは19分に引き伸ばすことで、白と黒のミドルクラスの文脈のなかにすっぽり収まる(ユダヤ人の)バート・バカラックが作曲、ハル・デヴィッドが作詞し、(お行儀のいい黒人女性の)ディオンヌ・ワーウィックが歌った「Walk On By」や、白人がメインの聴衆であるカントリーのヒット曲だった「By The Time I Get To Phoenix」の魂を変貌させた。いうならば、歌の主体を魔術的に変容させるためには、長い反復と映画音楽的なオーケストレーションが必要だったのだ。


■曲の構造と主体の転倒


 もっとも、ポップ音楽の歌の主体は曲の魂とは等しくない。『サウンドの力―若者・余暇・ロックの政治学』(1991年)の著者であり、音楽社会学者のサイモン・フリスはこう整理する。「僕たちが歌を聞いている時には3つのものを同時に聞いている、それは歌詞として書かれた“言葉”と、どのような音楽でどのように歌われるかによって派生する“修辞”と、個性を示す“声”なのだ」と。


 このなかで、言葉はメロディと接合することによって歌となり、人々の記憶に残る基礎となる力を持ちうる。アーティストがパフォーマンスをする時には、第一に、この接合された“歌”を自己の感情表現をするのではなく“演じる”のである。パフォーマンスが始まると、ポップ音楽ではアーティストの人格と歌の人格の二重の起動が同時に起こる。第二にーーこれが事情をより複雑にするのだがーーポップ音楽においてパフォーマーの身体は、オーディエンスの欲望を集める客体でもある。


 アイザック・ヘイズはこのことを利用する。当時のカントリーのヒット曲「 By The Time I Get To Phoenix」の背景としてアメリカ開拓の歴史が流れる歌の人格の、白い主体格が支配していた時間と場の文脈までを、パフォーマーとして遡りながら奪還し我がものとする。そのために、メロディや歌詞は残され原型を留めるが、全体として“歌”の長さは極端に引き伸ばされ、イントロダクションとしてその半分の長さもあるモノローグがつけ加えられ、全体として長く長く持続する反復を通して、そこに流れる歌と時間はオーケストレーションを利用して“段階化(入れ子構造化)”される。このことはポップ音楽における曲の構造について僕たちに考えさせる一つのきっかけになるだろう。一方、主体の転倒を強化するファンクと対比してのオーケストレーション/ストリングスだけでなく、以前からファンクに馴染みのあるギターやホーンも、このような楽曲の中で用いられることによって、語りの主体が変貌しつつあることへの注釈や暗示の役割をも果たす。


■“フィリー・ソウル”から“ディスコ”へ


 パンクで俳優/詩人、アイデンティティに敏感な問題意識を持つヘンリー・ロリンズは、彼の人生を変えた10枚のレコードに『Hot Buttered Soul』を選んでいる。アメリカにおける人種問題について少し思い出すまでもない。このアルバムは、マルコムXとブラックパンサーの時代にポップ音楽の構造の問題を明らかにし、歌の主体を揺るがし、アイデンティティの政治に触れたのだ。


 その後オーケストレーションを使ったダンスミュージックは驚くほど増殖していった。アイザック・ヘイズほど大胆かつあからさまではないものの、歌の主体の操作が意識されていた。そのことは2000年前後からのディスコ再評価でまず肯定されたアンダーグラウンドなゲイカルチャーとしてのディスコを手始めに、グローバルな文化産業としてのディスコを作動させる引き金となった。


 なかでも、1973年のバリー・ホワイト率いるLove Unlimited Orchestraの「Love’s Theme」、同じくケニー・ギャンブルとレオン・ハフ(Gamble & Huff)の「Love Is The Message」、そしてHarold Melvin & The Blue Notesの「The Love I Lost」といった先駆的な曲が、映画『ブギーナイツ』で描かれたようなディスコ(空間)と一体になっていった。また、アイザック・ヘイズの方法論が行き着いた先のひとつには、セルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキンの「Je t’aime… moi non plus」にヒントを得ながら、セルジュ・ゲンスブールの存在を掻き消し、アフロアメリカンであるドナ・サマーだけを前面に立たせた1975年の楽曲、ジョルジオ・モロダーがプロデュースした「Love To Love You, Baby」の17分間のバージョンがあった。彼らは、その2年後に「I Feel Love」をリリースし、明瞭に21世紀のポップ音楽のエレクトリックな肖像を予言したと言えるだろう。そうした流れについて、例えば近田春夫は、 “ソウルミュージック”は、“フィリーソウル”から“ディスコ”になったと証言している。


■ディスコの脱中心化


 「人々は(ベトナム)戦争や苦難、それにウォータゲート事件からの逃避を欲しているが、ゲットーからの多くの音楽のように攻撃的なものではない、男と女や愛についてなど肯定的な要素が自分の音楽には聞くことが出来るだろう」とバリー・ホワイトは当時のインタビュー(現在、YouTubeなどで視聴できる)で答えている。教会のピアノを弾いていた母の影響でジュゼッペ・ヴェルディやジャコモ・プッチーニに少年の頃から慣れ親しんだ自分は、音楽に喜びと幸福を盛り込むのだ、と。


 同じように、「Love Is The Message」をリリースしたスタジオミュージシャンたちの名前”MFSB”が指すのは“マザー、ファーザー、シスター、ブラザー”であり、Gamble & Huffは、自分たちの人種の社会的なエンパワーメントに極めて意識的であった。オイル騒動もあった1973年は、アメリカ合衆国の第二次世界大戦後における経済発展の“終わりの始まり”とされ、75年までの急激な不況は歴史に残る。


 アフロレイキ、ゲットレディ、スーパーコップス、ダンスクリエイター、BR&G エンバシー、ブラックシープ、ブラックビーナス……1976年に東京近郊だけですでに50店舗もあったディスコは、それでもまだソウルミュージックや、“ブラザー”や“シスター”という概念、あるいはベトナム戦争を背景とした人々のイメージと繋がっていた。しかし、イギリス人の男性グループBee Geesが胸をはだけファルセットの歌声を聞かせる映画『サタデー・ナイト・フィーバー』がグローバルな成功を収めた1977~1978年の冬以降、“ディスコ”という概念は世界でも日本でも特定の人種や階級と切り離され、脱中心的になっていった。このことはもちろん、ディスコの歌の主体の構造にそもそも孕まれていたのだ。


 ディスコの脱中心化は、サウンドにも表象されている。“ディスコサウンド”の特徴となった4つ打ちの先駆となったのは、1973年「The Love I Lost」におけるアール・ヤングのドラミングだというが、もし小節毎に4回均等にリズムが打たれるのであれば、プレイヤーの個性の表現というより、テクノロジーが広汎な分野に渡って支配的になった社会の反映といったビジョンとも親和性を持っていくだろう。実際、サウンドトラック『Saturday Night Fever』に収められてヒットした楽曲「Night Fever(邦題:恋のナイト・フィーバー)」においては、ポップ音楽の歴史上最初の幾つかの例と思われる、サンプリングによるドラムループの試みがなされている。


 アメリカでも日本でも、ディスコはチェーンストアになった。1975年、バンドの演奏がない初めてのディスコとされる六本木メビウスを出店した会社は、後にマハラジャというディスコチェーンを展開し、一世を風靡した。東京でも地区によって、もしくは会場によって集う層は異なっていたが、すでに1980年代初頭の新宿では、一説では週末毎に3万人がディスコに集っていたという。その後のジュリアナ東京まで、ディスコと呼ばれる場所は日本のバブル期の象徴となっていったのはご存知の方も多いだろう。


 しかし、ディスコの反復がポップ音楽の美学を脱中心的かつグローバルに支配し続けると誰もが考えていた数年後、ダンスミュージックは止められなくとも、ディスコ音楽自体の流行は衰えていった。ヒップホップの時代が徐々に始まりつつあった。本格的なディスコのリバイバルは1990年代半ば以降のDaft Punkの登場を待たなければいけなかった。(荏開津広)