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平手友梨奈と鮎喰響が共鳴 『響 -HIBIKI-』は“はじめの一歩”の勇気をくれる

2018年09月26日 11:12  リアルサウンド

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 まずは誤解を恐れずに。小説を書くという行為は、はたから見れば地味である。もっと言うと、文章を書くという行為ははたから見れば地味である。いかに書き手が自身のうちに情熱の炎を燃やしていようとも、「書く」という行為そのものには反映されない(気持ちが乗っているからといって、まさか踊りながら書くという者はいないだろう)。


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 欅坂46の平手友梨奈が映画初主演を果たし、天才にして予測不能な問題ガール・鮎喰響を演じた映画『響 -HIBIKI-』を観て、コーフン気味でこの文章を書きはじめたが、紫煙が充満する喫茶店では、キーボードを叩く音がカタカタと寂しく響いているだけだ。などと、この状況の描写を試みてみたが、やはり自分の才能が凡庸であることを自覚するばかりである。


 だがそれは仕方のないことだろう。そういった経験を積み重ねてきたわけではないし、両親からその手のDNAを受け継いでいるわけでもない。甘んじて、いまの自分を受け入れるしかない。


 しかし、この物語の主人公である15歳の女子高生・響は、いくら文字どおりの本の虫だとはいえ、「書く」訓練も、特異なDNAを継ぐこともなく、書き上げた小説が文芸誌で新人賞を受賞するのみならず、芥川賞と直木賞をW受賞してしまう。認めざるを得ない、天才なのだ。


 とはいえ本作は、この地味だとも思われる「書く」という行為をスペクタクルとして可視化するわけではなく、「マンガ大賞2017」を受賞した原作マンガ『響 ~小説家になる方法~』(小学館)と同様に、行為そのものに執着しているわけではない。


 あくまでひとりの少女の創作物と、それに対する社会の反応、そしてそれを生み出した彼女と、彼女に対する社会の反応とを描いている。つまり彼女が、どんな想いで、どんな調子で小説を執筆したのかということが重要なのではなく、それらの過程をほとんど排除し、社会的評価を得るところへと繋いでいく。執筆過程の排除、才能のバックグラウンドが排除されることによって、彼女が規格外の存在であることはより強調されるのだ。


 ここで彼女が生み出すものが小説であることに注目したい。小説であれば年齢にかかわらず、その才能がより広く、社会に触れられる可能性を誰もが等しく持っている。そしてこの小説(=作家の世界)というのは、ひとつの象徴だと受け取ることができる。圧倒的に“天才”だとしか言いようがない存在が、社会の“普通”や“常識”とされることに対して異端であるということを描くのが本作の主題だと思えるが、コミュニティをもっと限定するならば、たとえばそれは「演劇の世界」や「将棋の世界」、あるいは話題の「器械体操の世界」など、舞台はいろいろと交換可能である。


 この、社会の“普通”に迎合しないヒロインを、欅坂46の平手が演じることは早くから注目されていた。欅坂46といえば、それこそまさに、社会の“普通”や“常識”に迎合することにアンチの声を上げているという点が大きな特色だといえる。喉まで出かかった言葉を飲み込み、膝の上で拳を握りしめてやり過ごすという経験は誰にでもあるだろうが、そんな自分と決別すべきだというメッセージ性の強い楽曲とパフォーマンスは、この息苦しい社会の中で熱狂的に迎えられている。この集団のセンターに立つ平手は、たしかに響と重なるところはある。だが平手が、これらのメッセージをアーティストとして、表現者として自覚的に発しているのに対し、響は常軌を逸したレベルで、自らの言動・行動に純粋であるという点が決定的に違う。むしろ、高校生にして文壇のセンターに立つ響と、高校生にしてエンタメ界のセンターに立つ平手の姿こそ重なって見える。


 そしてこの響≒平手友梨奈という存在に合わせたフォーカスの範囲を、もう少し拡げてみると、そこには彼女(たち)を発見した存在・花井ふみ(北川景子)があり、支える存在・椿涼太郎(板垣瑞生)があり、ライバル視する存在・祖父江凛夏(アヤカ・ウィルソン)があり、批判する存在・田中康平(柳楽優弥)がある。そして売り出し方を思案する存在・神田正則(高嶋政伸)があれば、なんとか揚げ足を取ってやろうとする存在・矢野浩明(野間口徹)もある。


 その中で、響のように「社会に迎合するな!(と、彼女が口にするわけではないが)」というメッセージが本作の核なのか。誰もが彼女のようならば、社会は機能不全に陥るはずだ。ここで気がつくのは、響を取り巻く者たちの振る舞いを、本作は肯定も否定もしていないように思えるということである。それぞれの社会的な「役割」などと言ってしまえば、はなから諦めているように見えるかもしれないが、周囲の「オトナ」と呼ばれる者たちの行動の是非は別として、彼らの役割なくして響が表舞台に立つことなどなかったということは言わずもがなだろう。


 思い返せば、原作マンガの副題は『~小説家になる方法~』である。小説家(でなくても構わないが)になる者それぞれには、それぞれの方法があるが、そこに彼/彼女らを取り巻くさまざまな役割を持った人々がいるからこそ、「方法論」というものが生まれるのだ。響はたしかに天才なのだろう。しかし、小説を執筆し、新人賞に応募するという、いちばん小さな、すべてのはじまりの行動を彼女は自ら起こしている。このはじめの第一歩は才能の有無とは関係がない。彼女が“天才”だということばかりに気を取られ、こんな当たり前のことを見落としていたが、このはじめの第一歩こそ、<君は君らしく生きて行く自由があるんだ>(「サイレントマジョリティー」)、<既成概念を壊せ>(「不協和音」)、<闘うなら孤独になれ>(「ガラスを割れ!」)といったメッセージを発する欅坂46、そしてそのセンターに立つ平手友梨奈の存在と共鳴し合っていると言えるのではないだろうか。


(折田侑駿)