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『ザ・プレデター』なぜ評価が分かれる内容に? 『プレデター』シリーズの“核”となる部分から考察

2018年09月25日 10:22  リアルサウンド

リアルサウンド

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 ジャンル映画、なかでもホラーやスリラー、SF、アクションなどの作品に求められがちなのは、“目新しさ”であろう。それらのジャンルが総合された『プレデター』(1987年)こそ、まさに新しい試みによって人気を集めた映画の代表的存在だといえる。


参考:捉え方で評価が変わる? 『ザ・プレデター』は「ドン詰まりの男子のバカ騒ぎ映画」として満点!


 観客を惹きつけた最大の理由は、なんといっても“人間狩り”をするハイテク宇宙人「プレデター」の特殊能力を、当時の最新技術で表現した映像にある。自分の姿を透明に見せることができる「光学迷彩」、熱を視覚で確認できる「サーモグラフィー」、肩に装備した殺傷力抜群の「プラズマ・キャノン」の火力など演出のかっこ良さは、観客のド肝を抜いた。


 それから30年の間に、これらのような演出は様々な映画にとり入れられ、『プレデター』のシリーズも数作制作されることで、何一つ珍しいものではなくなってしまった。「最先端」という意味での役割は、とうの昔に果たし終えというべきだろう。


 だが、ヒット作の続編企画は定期的に持ち上がってしまう。最新作となる本作『ザ・プレデター』は、出汁(ダシ)を取り尽くすだけ取り尽くした「プレデター」という題材を使って、現在の映画作品として、どんな意義を作り出そうとしたのだろうか。ここでは、そんな難しい状況に立たされていた『ザ・プレデター』のアプローチについて、そして、その内容が賛否両論を巻き起こした理由についても考察していきたい。


 『プレデター』第1作は、様々な意味で“超え難い”伝説的な映画だ。若き日のアーノルド・シュワルツェネッガーが、代表作の一つ『コマンドー』(1985年)そのままに演じた、特殊部隊の指揮官という役柄で、ボディー・ビル大会でもないのにオイルを塗ってるんじゃないかと思うくらい、ギラギラと男性フェロモンを撒き散らしながらパワフルなアクションを繰り広げ、密林地帯のなかで未知の敵「プレデター」に対し、人類代表として渡り合った。この人知れず行われるアツい頂上決戦が、1年後に『ダイ・ハード』を生み出すジョン・マクティアナン監督の、爆発シーンが連続する派手でハードな演出によって支えられる。


 異星人「プレデター」の造形は、『遊星からの物体X』(1982年)、『ターミネーター』(1984年) などで話題を集めていた、特殊メイク・アーティストのスタン・ウィンストンのデザインに、ジェームズ・キャメロン監督のアイディアが加わったことで、謎めいた戦闘狂の兵士に爬虫類や虫のようなイメージが複合されたような、誰も見たことがないものとなった。このように、後にアメリカの娯楽映画を支える若い才能が集結するという僥倖に恵まれたことで、『プレデター』はSFスリラー・アクション映画のなかでも特別な存在となったのだ。


 それから続編はいくつか作られてきたものの、それらが第1作のインパクトに及ばなかったのは、やはりそこに、同等といえるような新しいアイディアが不足していたからのように感じられる。そもそも斬新な思いつきがあるなら、続編でなく新しい映画で描いた方が制約も少ないはずだ。その意味では本作『ザ・プレデター』もまた、シリーズを真に前進させるような衝撃作ではあり得なかった。むしろ森林や都市での戦いをそれぞれに描いた第1作、2作、もしくは『AVP2 エイリアンズVS.プレデター』(2007年)、そしてアウトローたちが共闘する『プレデターズ』(2010年)の内容を組み合わせたようなものになっている。


 しかし、その様式的な描写に一種のクラシカルな魅力を感じることも確かなのだ。考えてみれば、吸血鬼やフランケンシュタイン、狼男が登場するような怪奇映画は、時代の洗礼を受けることによって、いったんは陳腐な存在になっていった後に、一種の芸術性を新たに獲得したはずだ。それは例えば、「半魚人」が登場する映画『シェイプ・オブ・ウォーター』が、ついに「アカデミー作品賞」という権威的な評価を受けたようにである。つまり「プレデター」もまた、最新のものでなくなり、その後の陳腐さを通り越して、わびさびをすら感じさせるクラシカルな存在になり始めているのではないのだろうか。いまはその過渡期にあるため、まだ観客の認識に差が生じており、そこが本作の評価が分かれる原因の一つになっているように思われる。


 それでは、本作が考える『プレデター』シリーズの「核」となる部分は何なのだろうか。その理解は、今回監督を務めたシェーン・ブラックならではのものだった。彼は『プレデター』第1作で、「プレデター」に惨殺される兵士の一人として出演しており、同時期に大ヒットした『リーサル・ウェポン』シリーズの脚本を書いていた人物だ。『アイアンマン3』(2013年)や『ナイスガイズ!』(2016年)など、近年では監督としての仕事が忙しくなっている。


 本作の物語は、「ルーニーズ(イカれた奴ら)」と呼ばれる、軍のはみ出し者たちが、くだらない軽口をたたきあいながら、「プレデター」やクリーチャー、そして「プレデター」の進化形である「アルティメット(究極の)・プレデター」と攻防を繰り返すという内容だ。


 愛する息子を守ろうとする主人公・マッケナ(ボイド・ホルブリック)以外の「ルーニーズ」たちには、命をかけてまで強大な力を持った「プレデター」と戦闘する合理的な理由はない。そこにあるのは、『プレデター』第1作でも強調されていた、「軍の消耗品」としての意地であり、底辺の立場だからこそ持ち得た、あらゆる「力」に支配される社会や、現実に対する反抗心であろう。本作の真の主役は、シェーン・ブラックが、かつて『プレデター』第1作で演じた登場人物のように「消耗品」として死にゆく、心の根っこが善良な兵士たちなのである。


 だが本作に欠けている重要な点もある。それは、“本物の「戦士」とは何か”を問うような哲学性である。『プレデター』第1作では、サングラスをかけ葉巻を吸いながら登場する、まるで大国アメリカの“傲慢さ”を体現する、シュワルツェネッガーが演じる兵士が、消耗品であることを自覚し、最終的には近代兵器ではなく、知恵と自作の道具と、自らの肉体によって、総合的に「プレデター」を打ち倒す。彼は圧倒的な装備を持った「プレデター」のような文明に頼らず、国にも頼らず、裸になって自然と同化することによって、より本質的な意味での、真の「戦士」として、「プレデター」という存在を凌駕し得た。


 そこには、『地獄の黙示録』(1979年)を想起させるような哲学性すら感じさせる。『プレデター』第1作から与えられる異様な熱量には、そんな理由もあるように思えるのだ。本作はその意味で、「プレデター」という存在の可能性を使い切っていないように感じられる。不満をうったえる観客の一部もまた、そういったものを感じ取っているのかもしれない。(小野寺系)