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平手友梨奈主演『響 -HIBIKI-』の漫画的な手法 “天才”を描く試みをどうアプローチしたか

2018年09月21日 12:32  リアルサウンド

リアルサウンド

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 頭脳的な“天才”を創作物のなかで描く。考えてみれば、これはとても難しいことだ。なぜなら、天才でなければ天才がどういうものであるかを真に理解することはできないため、うまく表現ができないだろうし、仮に天才が天才を描いたとしても、天才でない大多数の者は、それを理解しにくいはずだ。ならば、作り手と受け手が天才であればいいのかというと、それはもう現実的な話ではないし、商業作品でもあり得ないだろう。


参考:初登場6位『響 -HIBIKI-』 注目すべきなのは、主演の平手友梨奈だけじゃない


 柳本光晴の漫画『響 ~小説家になる方法~』を原作にした本作『響 -HIBIKI-』は、小説を書くことについて、誰もが認めざるを得ないほどの圧倒的な才能を持った女子高校生を主人公にした映画である。本作は「天才」を描くという困難な試みを、どのようなアプローチによって達成しようとするのか。ここでは、『響 -HIBIKI-』の内容を振り返りながら解説・考察していきたい。


 本作の物語は、小説を読むのも書くのも大好きな女子高生、鮎喰響(あくい・ひびき)が、おそろしいまでの批評眼と、圧倒的な執筆の才能で、文壇の世界を駆けあがっていく姿を追っていく。その態度は傲岸不遜。どんなに立場が上の人間にも物怖じせず、間違っていると思えば、相手が芥川賞作家だとしても、助走をつけたジャンピングキックをお見舞いする。


 彼女はいわゆる「中二病」と呼ばれるような“イタい”奇行を繰り返しているようにも見えるが、その行動原理は、正しい生き方を追求し“筋を通す”という一念に貫かれている。そのクールで突き放した態度は、文芸部での活動など学校生活でも変わらないが、不愛想ながら友情をはぐくんだり、仲間たちとのレジャーをエンジョイしたりなど、一般的な女子高生のような可愛らしい一面も随所に見せる。


 なんといっても本作は、この鮎喰響を演じた平手友梨奈について語らねばならない。彼女は、クールでエキセントリックなパフォーマンスによって絶大な人気を得た女性アイドルユニット「欅坂46(けやきざかフォーティーシックス)」のなかでも、さらにエキセントリックな雰囲気を放つ中心メンバーである。愛らしい小動物みたいな容姿ながら、歌唱やダンスでは、何かが身体に乗り移ったようなパフォーマンスを見せ、ゾクッとさせるような怖さを持っている。


 本作はそんな彼女の、映画初出演にして初主演作品だが、初めてとは信じられないほどの迫力がみなぎった演技に驚かされる。天才・響の役を、演技経験の乏しい俳優が演じれば、目も当てれないような映画になってしまうことが予想されるが、ここにその予想を覆すことのできる才能を持った平手友梨奈をキャスティングしたというだけで、本作は存在価値を持ったように感じられる。


 だが、これはあくまで小説を書くことを題材にした物語である。演技だけでは説得力不足になってしまう。小説の天才的才能というものを、作品のなかでどう表現すればいいのか。ここで使われているのは、よく漫画作品に見られるような手法だ。


 例えば、バトル系の漫画において読者を惹きつけるためには、常に以前よりも強大な敵を主人公にぶつけていかなければならない。いま戦っている敵が、以前の敵よりも強いということを読者に印象づけるには、登場人物の誰かに、こうしゃべらせればよい。「なんてこった、前の敵よりも、こいつは比べようもないくらい強い…!」「お前が倒した敵は、四天王のなかでも最弱…!」などというように。


 基本的に、本作で行われているのも同様のやり方だ。鮎喰響が天才であることを認める言葉を、プロの編集者や作家たちに吐かせることによって、本作は響の書いた文章を登場させることなく、彼女の天才性に説得力を持たせようとする。響の天才を直接的に示す証拠を一切出さない…つまりテーマの中心をあくまでブラックボックスとして描くという試みである。そして、この“逃げ”ともいえるアプローチによってでしか、人智を超えた頭脳的天才を描くという表現は成立し難いのも確かである。


 また、舞台となる文学界の描き方について、本作は誰もが想像するような類型的な表現しかできていないところもある。文学賞を題材とした映画に、筒井康隆原作、鈴木則文監督の『文学賞殺人事件 大いなる助走』(1989年)があるが、これは文壇自体への批判や、小説家たちへの意地悪な視点を含め、興味深い描写にあふれていた。『響 -HIBIKI-』の描き方を見ていると、そのように文学界に対して具体的な問題提起をしたり、本物の才能を表現するという部分には、本当は興味が無いのではと感じられる。そもそも、それを描き得る能力は、原作にも映画版のスタッフにもないのではないか。


 その代わり主人公の響には、ある役割が与えられている。それは、「面白い小説」、「つまらない小説」に分類された文芸部の本棚が暗示するように、世の中の出来事をジャッジし、間違ったことや曲がったことに制裁を与え、正していくというものだ。


「おめえは本当のワルじゃねえ。ワルに見せるのが好きなだけらしいな」


 黒澤明監督の『用心棒』で、飯屋の親父が言うセリフだが、私が本作を観ている途中でこの部分を思い出してしまったように、響という少女もまた、善悪の価値観から自由でいるように見えて、じつは正義のために独自のやり方で規格外の能力を発揮するという、『ブラック・ジャック』の無免許天才外科医や、『御用牙』の暴力によって悪と戦うかみそり半蔵などと同列に並ぶような、コミック的ダークヒーローなのだと感じさせる。つまりここでは、「天才」や「小説」というものは、ヒーローに与えられた特殊な属性に過ぎず、「文学界」という舞台は、キャラクター同士がバトルするリング以上の意味はたいして持たせられていないということだろう。


 だが、これが一般的な漫画作品における、ある種の王道的な物語の作り方なのである。だから本作を楽しむには、そのことを理解したうえでコミック的な娯楽ととらえることが正しいように思われる。


 とはいえ、ここに新たな普遍的テーマが発生していることも確かである。本作における響が正義の側につくのならば、「悪」とは何なのだろうか。それは「殴った本人にはもう謝ったのに、何で世の中にしなきゃいけないの?」という、劇中で響が語った真っ当なセリフが象徴するように、同調圧力が支配し、自殺率の多い日本的な「世の中」そのものなのではないか。上下関係や年功序列を無視し、空気を読まない響という人物を通すことで、そこにある卑怯さや曖昧さというものが、どんどん暴かれていくのだ。『響 -HIBIKI-』が真に描くのは、そのような欺瞞に満ちた「空気」と、それを切り裂いた瞬間に生まれる、暗い快感である。


 本作で思いもかけず発見できたのは、モニターの前で登場人物たちが勢いよくキーボードを打つ姿が、意外にエキサイティングに描けるということだった。小説家やライターなどが仕事をしている場面は地味だと思われているが、画面のライトに照らされた顔はスクリーンに映え、ガチャガチャと響く音響にもエネルギーがある。そして、小栗旬が演じる売れない小説家が、原稿が完成した瞬間に思わず一筋の涙を流すという、エモーショナルなシーンにも胸を打たれた。“ものを書く”ということは、本人にとってドラマチックな行為なのだ。(小野寺系)