トップへ

石原さとみが最も美しい回に 予想外のハッピーエンドとなった『高嶺の花』最終回を考える

2018年09月13日 14:31  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 野島伸司脚本なのだから、何か悪いことが起こるに違いない。9月12日放送の『高嶺の花』(日本テレビ系)の最終回を、不安を抱えながら見ていた人も多いことだろう。しかし、2018年の野島は違った。まさかのハッピーエンドで幕を閉じることとなったのだ。


 思い返してみれば第10話には、誰かが死にうる描写がたくさん散りばめられていた。龍一(千葉雄大)は、車を猛スピードで走らせながら狂ったように笑いだし、もも(石原さとみ)に最後の別れを告げられた直人(峯田和伸)は崖の上にある花を摘もうと試みる。また、なな(芳根京子)が龍一に抱きついた際は、新たな仕事に希望を見出す龍一を、これまでの恨みを込め包丁で一差ししてしまうのではと、少し緊張を覚えたものだ。そんな予想を裏切り、野島が最後に選んだのは、人と人のつながりと愛の肯定だった。


 全体を通して『高嶺の花』は、正直のところ100点満点だったとは言えない作品だったと考える。人の容姿をネタにするセリフがところどころで見受けられたことには、最後まで胸にひっかかりを覚えたし、登場人物の「男は○○」「女は△△」という発言は、ジェンダーフリーな考え方が広まりつつある現代において、古くさいアプローチに感じ取れた。


 それでも、バッドエンドを得意とする野島が、あえてハッピーエンドを選んだのは、この世界には優しさが必要だと感じ取ったからではないだろうか。かつては独り言で終わっていたそれぞれの本音が、SNSの普及により膨大な数が可視化され、今やタイムラインには毎日愚痴や弱音が吐き出され続けている。それは投稿者が不幸なのではなく、どれだけ平和な世の中だとしても、生きていくというのは本当につらいのだと皆わかり始めているのだ。


 いじめ、DV、自殺、近親相姦など野島が得意としてきたセンセーショナルな題材の該当者だけでなく、TBSの宇垣美里アナウンサーが言っていたように「私には私の地獄がある」のが今や当たり前の考え方となっている。だからこそ、救いを。人間には人を傷つける力が備わっているが、その一方で誰しも人を救う力も持っている。ももが直人に別れを告げるシーンで「携帯は着拒、SNSはブロック」とももは言うが、最終回からは親指1つで人間関係が終わってたまるかという強い意志が込められているように感じた。


 実際に直人は、あんなに問題児だった宗太(舘秀々輝)を親指1つでぐんと成長させ、人の温もりを教えることができた。同じようにどんな時でも、ももがピンチに陥れば直人は救い出そうと奮闘する。最後に見せた真実の愛と思いやりを知った石原の表情は、なんと美しいことか。そこには、彼女が美人だからという点を超越した純粋な気品と美が宿っていた。


 「Love me tender(優しく愛して)」と1965年にエルヴィス・プレスリーは歌うが、どんな時代になろうともやっぱり人間は愛を求め、愛に救われる生き物なのだろう。予想外の結末を迎えた『高嶺の花』は、野島が平成という時代に別れを告げるような作品だったようにも思う。(阿部桜子)