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木村拓哉と二宮和也の組み合わせを楽しむだけではない 『検察側の罪人』の“異様さ”を解説

2018年08月31日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 日本のトップアイドルの座に君臨し続け、主演俳優としてのキャリアも豊富な木村拓哉。人気絶頂の男性アイドルユニットに所属しながら、飛び抜けた演技力で注目され続けている二宮和也。彼らがダブル主演したのが、本作『検察側の罪人』である。当事者の二宮ですら、「この2人が共演することがあるのかと思って…」と語っているとおり、この顔合わせには新鮮な印象がある。おそらく事務所内の事情の変化もあって、いままであり得なかった共演が実現できるようになったというところだろうか。


参考:木村拓哉と二宮和也、アプローチの異なる名演! 『検察側の罪人』が必見作である理由


 しかし本作『検察側の罪人』は、そんな人気俳優の組み合わせや魅力を楽しむだけの作品にはなっていなかった。主演の二人は暴力的とまでいえる凶暴で妖しい雰囲気を纏い、映画全編に漂うダークな重厚感と、ただならぬ違和感は、観客を奇妙な世界に誘う。ここでは、そんな本作を最大限楽しむために、なぜこの映画がここまで異様なものになっているのかを解説していきたい。


 本作を手がけているのは原田眞人監督だ。『突入せよ! あさま山荘事件』(2002年)や『日本のいちばん長い日』(2015年)など、重厚な映像と演出による群像劇を撮る手腕を持った監督である。それに加え、編集によって1秒、2秒といった早いリズムでカットが切り替わるというところが特徴的だ。


 本作の鑑賞中に数えてみたが、長くても1カット4秒ほどで次のカットに移るので、各シーンはかなり小刻みなカットによって構成されているということになる。それ以上に長いカットは、だいたいカメラが動いている「移動撮影」の場合である。そのような観客を落ち着かせてくれない手法は、むしろ重厚さとは逆の軽快な印象が与えられる。この相反する感覚が同居するのが原田監督作だといえよう。


 さらに一つの瞬間に登場人物たちが発するセリフが重なったりするなど、目に、耳に飛び込んでくる情報が非常に多い。観客はこれら情報を、頭をフル回転して脳内処理し続けても良いし、自分の集中したいところだけに絞っても構わない。どちらにせよそこには、ある種のライブ感やグルーヴ感が発生し、観客を作品世界のなかに引き込んでいく。


 重厚と軽快。これはいろいろな点において原田監督作に見られる特徴といえる。原田監督が信奉するという、ハリウッドの黄金時代を代表する監督ハワード・ホークスもまた、それらを併せ持つ映画監督だ。いかにもハリウッド的な、ダイナミックで優雅な演出を見せながらも、それだけではない数々の才能を発揮し、例えば『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)では、おそろしいまでのハイスピードなセリフの応酬で、コメディーでありながら観客にめまいを覚えさせたし、『三つ数えろ』(1946年)では、あまりに難解かつ複雑な脚本によって偏執的な世界を作り上げていた。これを踏まえると、原田監督が繰り出す複雑性の本質が見えてくるように思える。


 本作『検察側の罪人』は、本作のストーリーそのものとは直接関わらない、奇妙なディテールにも幻惑させられる作品だ。予告でも一部の間で話題になった、「俺の正義の剣(つるぎ)を奪うことがそれほど大事か」という、木村拓哉が発する常軌を逸したセリフをはじめとして、川岸や葬儀会場で踊られる奇妙な舞踏。「フレンチトースト」と言って運ばれてくる、まったくそうは見えない料理や、トマトの中にチーズの入った必然性を感じない創作料理。松重豊が演じる闇世界のブローカーがバーテンダーをする奇妙なバーなど、そこには本作が綿密に組み上げていくリアリズムを自ら瓦解させるような、現実を超越したシーンが挿入されていく。この混乱、この混沌こそが本作をいびつに、そして単純なエンターテインメントを超えた世界を現出させている。


 同じく日比谷公園が印象的に映される、原田監督の過去作『金融腐蝕列島 呪縛』(1999年)は、大手銀行の経営危機を描いた、リアリティのある社会派ドラマだが、やはり異様な描写が散見されていた。仲代達矢が演じた会長の豪華な居室には、雌(めす)の狼と、その乳を吸う人間の赤子が象られた像が設置されていたが、これはローマ帝国の建国にまつわる神話をモチーフとしたものだ。つまりここでは、大銀行の没落と、崩壊したローマ帝国のイメージが重ね合わされているのである。さらにオープニングにおいて、日本の戦後復興から高度経済成長までが紹介されていたように、そこには経済大国・日本そのものの没落が描かれていたともいえる。このように重層的な構造が、作品を複雑に、また異様な熱量を帯びるものにしていったのだ。


 同様に、本作で木村拓哉演じる、東京地検の最上(もがみ)検事が発した、「俺の正義の剣を奪うことがそれほど大事か」というセリフも、ギリシア神話、ローマ神話に登場する、秤(はかり)と剣を持ちながら法を司る「正義の女神」を暗示するものであろう。秤は「公正に判断する」ということであり、剣は「裁きを下す」ことの象徴である。そのどちらが欠けても正義の裁きを下すことはできないという思想だが、この「剣(つるぎ)」という象徴的要素にこだわる最上検事の姿が表しているのは、私情にとらわれたために公正さを欠き、断罪のみにこだわる常軌を失った狂人なのである。


 この「剣」が暗示するものはそれだけではないだろう。ここで思い出されるのは、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『マクベス』である。主人公である将軍マクベスは、宙に浮いた剣のまぼろしに誘われるまま、主君を殺害し自らが王と成り代わった。だが彼は日々、罪と強迫観念にとらえられ、常軌を失ってゆく。


 冤罪をかぶせることによって、ある人物への復讐を成し遂げようとする最上検事の狂態は、そんなマクベスのように凄まじくもおそろしい。目的を完遂するために手段をいとわず、保身のためなら自らを慕う、二宮和也が演じる新人検事・沖野を切り捨て、自分の娘を事件に巻き込むことさえしてしまう。最上自身が思わず「正義の剣」という言葉を発したように、かつて沖野が憧れた最上の出発点というのは、理不尽な悪を裁くという「正義」だったはずだ。しかし彼の理想は、彼のなかでそれ自体が至上の目的となってしまったために、「それを執行するためならどのような悪も許される」という身勝手な考えに堕落し、逆に「悪」そのものになってしまったのである。


 最上の人物造形には、意識的か無意識的かは分からないが、SMAP解散劇において事務所側に残ったという、「組織のなかで苦悩する木村拓哉」という漠然としたパブリック・イメージが追加されているようにも感じられるし、事務所では先輩・後輩の絶対的な上下関係のある木村・二宮という関係性もまた、作品に「深み」を与える要素になっていると思える。


 原田眞人監督がそこにさらに加えるのが、第二次世界大戦において日本軍が遂行しようとした「インパール作戦」のイメージである。「インパール作戦」とは、インド侵攻の際に日本の南方軍がイギリス軍から領土を奪うため、食料の補給ができない状況のなか無理な行軍をし、大量の死傷者が出たという、悪名高い悲劇的戦闘だった。


 補給ができないという悪条件は、さすがに作戦が討議されるなかすでに指摘されていたが、「大和魂」で突破せよという、ヒステリックな精神論が場を圧倒し、犠牲をいとわない戦いを兵士たちに強制することになったのだ。そこでの戦闘は、爆薬を持ったまま戦車に突撃するような酸鼻なものとなった。撤退する日本の兵士たちは、飢えやマラリアに苦しみ、戦友の死体の肉を食べることで生き延びようとした者たちも多かったという。彼らが進んだ道には、途上で力尽きた大量の日本軍の死体が横たわり、そこは「白骨街道」と呼ばれた。


 戦死者の数が膨大になってくると、作戦中に関わらず、現場の兵士たちを統率する師団長たちが更迭されるという、異例の事態が起こった。これが意味するのは、多くの犠牲者に対して意志決定機関に問題はなく、作戦がうまくいかないのは、「あくまで現場の人間が無能だから」ということを印象づけるためであろう。上層部の人間が、部下の命や、師団長らの立場を犠牲にすることで、自分に都合の良いストーリーを作り上げたのである。このような責任逃れが繰り返された挙句、責任の所在は曖昧なものとなり、戦後になってもこの悲劇が引き起こされたことについて断罪はされていないという。


 望みなき戦いを戦う。本作の最上は、帰り来ない少女の尊厳を守ろうと、無理のあるストーリーを作り上げ、自分の権力と詭弁を最大限に使用しながら、目的を押し通そうとした。最上自身は、そんな自分を白骨街道を歩む兵士のつもりになって、そのような夢を見たと感じたのかもしれない。だが実際には、彼は許されぬ罪を犯したばかりか、その罪を隠し責任を逃れ、自分以外の者になすりつけるという、「インパール作戦」における軍の上層部のような存在となっていたのである。


 だが本作が戦争を通して描こうとしているのは、それだけではない。平岳大が演じる、最上の友人である政治家が、いま日本社会が戦争の方向に再び向かい始めているのではないかということを語り、社会が狂気に支配されていくということに絶望していることを語らせていることはもちろん、本作で複数見られる舞踏のイメージもまた、醸成された狂気やカルト性に日本社会が侵されているということを暗示しているように思える。


 ここでは、インパール作戦という愚行が行われたことと、その断罪が行われなかったという負債、そのことと現在の日本社会にはびこるカルト性や病根というものがつながっているということを示唆しようとしている。そして、その結びつきを表す中間的な位置づけにあるものが、『検察側の罪人』の本筋における、最上検事が“踊り続ける”狂態なのである。(小野寺系)