■ヒット作の背景には、作品の「多義性」があり?
近年のドラマや映画のヒット作のいくつかには、ひとつの作品から複数のメッセージを受け取れるものというのがあるように思う。
例えば、『逃げるは恥だが役に立つ』(2016年)であれば、「ムズキュン」という言葉とともにラブストーリーとして見る人もいれば、家事について、労働という観点から考えるというという点に注目している人もいた。エンディングの恋ダンスをヒットの理由と考える人もいたが、そういったいろんなものが幾重にもなってヒットしたドラマであった。
海外の映画だが2014年の『アナと雪の女王』は、今までのディズニーの映画と同じように王道のプリンセスものとして受け止める人もいる一方で、そのメッセージに女性の解放をみる人もいた。また楽曲も大いに流行し、「ありのままで」という歌詞の解釈についても議論された。やはり、この作品も、いろんな層がそれぞれに受け止めた結果ヒットした作品だったと思う。
現在放送中のドラマ『義母と娘のブルース』もそんな風に、受け取り方がいくつもあるドラマだ。
■綾瀬はるかのキャラクター性と物語設定のわかりやすさ
まず人々を引き付ける要素として一番にあげられるのは、綾瀬はるか演じる義母の亜希子が、バリバリのキャリアウーマンで、表情にも乏しく四角四面でロボットのようなキャラクターとして描かれているというところだ。今までにも『女王の教室』(2005年)、『家政婦のミタ』(2011年)など、遊川和彦×日テレの作品と共通するところだろう。
また、ドラマが始まる前のプロモーションで、はっきりとこれはこういうドラマですよという設定を短く説明することができるのも重要なところだ。これは視聴者を納得させる以上に、テレビ局の企画会議で納得されるということも大きいかもしれない。本作であれば、「漫画原作で、バリバリのキャリアウーマンが、契約結婚を機に家庭に入り、義理の娘との間に本当の親子のような関係性を築く話です」と一言で言い表せ、興味を引かせることができる。
いまや、これらの作品に限らず、キャラクターや物語の趣旨をはっきりとさせるということは、ドラマに求められている大きな要素である。もちろん、そればかりに頼ってはいけないが、最初にこうした要素で人々を引き付けるということは、今の時代、無視することはできないだろう。
■「ながら視聴」層と熱心なドラマウォッチャーの双方を満足させる緻密な脚本
しかも、亜希子のキャラクターには、ロボットっぽいということのほかに、バリバリのキャリアウーマンという設定ものっかっている。亜希子が発するビジネスに役に立ちそうな格言に食いついているビジネスマン層もいると聞いた。これも『逃げ恥』と共通する点であるが、ビジネスのスキームで物事を語られると、信憑性を感じる層というのが確かに存在しているのだ。
ドラマというのは、自宅で観るという性質を持つ以上「ながら視聴」をする人も多い。そんな人にこうしたはっきりとした要素で興味を持ってもらうことは必要なことだ。それと同時に、ドラマの奥に描かれたメッセージを読み取る「ながら視聴」ではなく、能動的に凝視する視聴者=ドラマウォッチャーの存在も無視できない。
キャラや、派手な仕掛けだけではドラマウォッチャーは満足しない。本作はキャラや設定に全体重をかけるのではなく、キャラや設定を利用して、そのキャラの心の変化を丁寧に描いていることで、こうした視聴者も満足させているのではないか。
■「ひょんなきっかけ」で出会った2人に芽生えた感情を変化を丁寧に追いかける
これも『逃げ恥』と共通するが、もともとは接点のなかったヒロインと誰かが、ひょんなきっかけを機に、お互いに興味を持ちあう。そして、一歩ずつ相手の気持ちを推し量りながら距離感を近づけていく。こうした丁寧な描写は、ドラマが、「ひょんなきっかけ」を、ただのアイキャッチ的な仕掛けとして見ていたらできないことである。
本作も、契約結婚の二人が、徐々に距離を近づけ、血のつながった夫婦よりも得難い関係性を築く過程が丁寧に描かれていた。最初は遠慮しあっていた二人が、娘の一言をきっかけに、親子三人川の字で寝っ転がり、娘の寝ている間に夫婦ふたりでするやりとりを観て、これは恋愛と言っていいのだと感じた。そして、夫との間に感情が芽生えたのと歩調をあわせて、娘との間にも愛情が芽生えていくことも描かれていた。だからこそ、夫が亡くなってからの娘との二章にも期待が持てる。
■『逃げ恥』『カルテット』『万引き家族』でも描かれた「疑似家族」
義母と夫、娘との間に愛情が芽生えるというのは、感情の面でも訴えかけるが、それ以外に、家族の在り方についても描いている。この家族は、血が繋がっているわけでもないし、夫は娘を任せられる人を探していて、妻は他愛のない話ができる人を探しているという利害の一致で始まった疑似家族である。
疑似家族をはじめとして、家族の在り方を問うというのは、昨今のドラマの隠れた、そして重要なテーマでもある。『逃げ恥』をはじめ、『カルテット』(2017年)、『隣の家族は青く見える』(2018年)、『anone』(2018年)など、次々と制作されている。映画で言えば、『カンヌ国際映画祭』でパルムドールを受賞した『万引き家族』もまた、疑似家族を描いた作品だ。
疑似家族が描かれるのは、日本の家族の在り方が変化の中にあるということの表れでもあるし、視聴者が「当たり前」と思われていたことに疑問を持っていたり、「当たり前」に縛られることを、潜在的には窮屈に感じているということの表れでもあるだろう。
■「当たり前を問う」は近年のドラマの重要な要素に
これは家族に限ったことではない。アラサーだから早いとこ恋愛して結婚しないと周囲から取りこぼされてしまう、と煽るような作品は、これまでの「当たり前」に捕らわれた作品であるから、そこから一歩先を考えない限り、楽しんで観ている視聴者でさえもどこか息苦しさを感じてしまうだろう。このように、昨今のドラマには、「当たり前を問う」ということは、重要になりつつあるのではないか。
もちろん、「当たり前」のほうが安心するという人も世の中にはたくさんいる。『義母と娘のブルース』は、疑似家族を描きつつも、その家族の在り方は、キャリアウーマンが家庭に入り、娘や夫を本当に愛していくという、保守的な部分もある。これは、ミスリードでもなく、このドラマに実際に描かれていることでもある。
これも『逃げ恥』との共通点であるが、『ぎぼむす』は、伝統的家族観の疑わしい部分には疑問を抱きながら、家族観として排除する必要のない部分は肯定している。こうした二重のメッセージがあることによって、保守的な視聴者にも、保守的な価値観を疑っている視聴者にも受け入れられている。この結果が、7話での15.1%という視聴率に結び付いたのではないだろうか。
(テキスト:西森路代)