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渡辺あや脚本の京都発地域ドラマ『ワンダーウォール』が問いかける“見えない壁”

2018年08月25日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

 渡辺あやが脚本を手掛けたドラマ『ワンダーウォール』が8月25日にNHKBSプレミアムで再放送される。『ワンダーウォール』は、日本最古の学生寮・近衛寮の建て替えに反対する学生たちを描いたフィクションである。そのタイトルにあるウォール=壁とは、大学の学生課の窓口に突如できた隔たりのことだ。


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 壁に対する闘いと聞くと、香港の雨傘運動や、かつての韓国の民主化運動などを思い浮かべてしまい、日本にあるこの大学では、いったい何と戦っているんだろうという気持ちで見始めたところがあった。しかし、観ていくとこれが日本の在り方そのものを描いているように思えてくるのだ。


 香港でも韓国でも、闘うべき相手は明確だ。香港であれば、1997年にイギリスから中国に返還されてから50年は一国二制度が約束されているが、実際には約束が守られているとは言い難く、民主的な選挙を求めて学生たちを中心にして始まったのが雨傘運動である。このことはドキュメンタリー映画『乱世備忘 僕らの雨傘運動』にも描かれている。


 韓国の場合は、過去のことであるが、こちらも映画『1987、ある闘いの真実』や、その7年前を舞台とした『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』などに、民主化を求める人々の闘いが描かれている。


 日本で考えれば、戦後に民主化が進められたことから、香港や韓国のように、人民の動きによってそれを手にするという切実な感覚はなかなか得にくい。何かしらの壁を実感しつつも、この国にはあからさまな壁は存在していないと思いながら過ごしている人が多いのではないかと思う。


 ドラマの中でも、近衛寮がなくなったからといって、民主化が奪われるわけではない。しかし、近衛寮がなくなるということは、学生たちの自治の精神を一方的にはく奪することにはなる。大学が近衛寮をなくすという理由をドラマで知り、その理由をつきつめていくと、それは、民主化の精神を削ぎ、民主化の精神をないがしろにしていることに繋がっているようにも思えてくる。


 そして、このドラマを観ていると、日本には日本独特の壁、それも見えにくいだけに、やっかいな壁があると感じるのだ。


 例えば、学生たちは、寮存続のための抗議を行うため、学生課の窓口に行く。そこにいるのは、山村紅葉演じる寺戸という表情ひとつ変えることなくどんな波をも吸収してしまう職員(通称・寺戸ポット)だ。ただ、寺戸をいくら倒しても、学生たちは、その次にいる担当者や、その上にいる学生部長、そして大学にたどり着き、直接対話をすることはできない。寺戸を倒しても、また寺戸の代わりの窓口が現れてその新しい担当者と同じように闘うだけだ。このことに気づいた学生たちは虚無感から運動をあきらめざるを得ないのがせつない。


 大学の学生寮に壁はあるが、その壁の向こうの本当の敵の存在は見ることすらできない。この巧妙な構造は、たぶん至るところにある。こうした状況を知ってしまうと、情熱だけでやっている間は、反発できるかもしれないが、この構造に気づきいろんなものが見えてしあまった者は、むなしさを感じて戦意を喪失してしまう。考えれば考えるほどに戦意喪失する構造になっているのだ。


 大学のことを「本当の敵」と書いたが、こうして敵に対して動いている人を戦闘的な人間と感じ、敬遠してしまう層というのも現実にたくさんいる。何もおこさないのが平和という考え方が主流になってしまうのも歴史を考えれば理解はできる。そして、これらのことも、「壁」や「問題の本質」が見えにくくなっている構造とも深くかかわっているだろう。


 このドラマの良いところは、そうやってすべてが見えたことで虚無感を感じてしまった人を描きつつ、それで終わらないためにはどうすればいいのかを考えるためにあることだ。


 多くの映画では、まったく反対のAとBの例を提示して、どっちもありですよねとか、どっちが正しいと思いますか?などと問う終わり方にして、疑問を投げかける形を取る。しかし、このドラマの場合は、どっちが正しいか、などということを投げかけているのではない。本当に真剣に考えないとどうにかなってしまうかもしれないくらいの切実な問題や、日本に横たわる見えない壁について、深く問いかけていると感じるのだ。(西森路代)