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欠落感漂う日本の劇場長編アニメーション界の“希望の灯” 『ペンギン・ハイウェイ』を徹底解剖

2018年08月24日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 先日、カナダの都市モントリオールで開催された、ジャンル映画祭として有名な「ファンタジア国際映画祭」に行ってきた。この映画祭のアニメーション部門最優秀賞は、「コン・サトシ賞」と名付けられている。これは2010年に亡くなった日本のアニメーション監督・今敏の業績に敬意を表したものだ。


参考:声優初挑戦で主演に抜擢! 北香那が語る、『ペンギン・ハイウェイ』“アオヤマ君”の役づくり


 そんなディープな映画祭で世界のアニメ作品と競い合い、2018年度の最優秀アニメーション賞を制覇したのが、本作『ペンギン・ハイウェイ』だった。その内容を見れば受賞も納得してしまう、完成度とイマジネーションを持ちあわせた作品だ。そしてそれは、圧倒的な存在感を放ってきたスタジオジブリが継続的な制作から退き、欠落感漂う日本の劇場長編アニメーション界において、希望の灯のひとつとしても評価できる、今後の可能性を感じさせるものとなっていた。


 ここではそんな『ペンギン・ハイウェイ』を解剖しつつ、作品が描こうとしているものについても、できるだけ深く読み解いていきたいと思う。


■スタジオコロリドは「ポスト・ジブリ」か?


 スマホのゲームアプリや、マクドナルド、カロリーメイトなど、ここ何年かに、スタジオジブリ風の雰囲気を何となく感じさせるアニメーションを使ったTV-CMが増えてきたと感じていたが、これらを精力的に作っていたのは、「スタジオコロリド」というアニメスタジオだった。漠然と、ジブリから独立したスタッフが手がけているのかと思っていたが、たしかにスタジオジブリ出身のアニメーター、新井陽次郎がコロリドに在籍し、実際にこれらCMの一部を作画・演出していた。


 このようなCM作品に代表されるように、ジブリの影響を一部感じさせる短編アニメーション作品を、7年のうちに多数手がけてきているスタジオコロリドは、穿った見方をすれば、スタジオポノック同様に、ジブリに影響を受けつつ、そういう作風を対外的な「売り」にしてきたともいえるだろう。いま「ジブリっぽさ」は、武器になり得る要素なのである。そんなコロリドの劇場用長編第1作となるのが、『ペンギン・ハイウェイ』 だ。監督は、スタジオのトップクリエイターである石田祐康(いしだ・ひろやす)。彼にとっても本作は長編初監督作である。


 石田監督のデビュー作は、大学在学中に制作した短編『フミコの告白』(2009年)だった。その物語は、意中の男子にフラれた女学生が、あまりにもショックだったのか、泣きじゃくりながら猛スピードで道を走っていると、急な階段で転げ落ちそうになり、必死で前に足を出し続けることで、さらに加速して事態がエスカレートしていくという内容だった。いつしかフラれたことなど観客に忘れさせてしまうような疾走感は、学生の自主制作のレベルをはるかに超える表現力だと感じさせた。


 このエクストリームな表現は、『ルパン三世 カリオストロの城』で、城に忍び込もうとするルパンがひょんなことから、意に反して急角度の屋根から滑り落ちていき全力疾走してしまうシーンに似ており、さらに『千と千尋の神隠し』にも同様のシーンが存在している。


 石田監督の劇場用短編『陽なたのアオシグレ』(2013年)でも、やはり宮崎駿監督作を思わせる、鳥の飛翔シーンが話題となったように、石田監督の表現の根底にあるのが、「宮崎アニメ」であることは事実だろう。だから『ペンギン・ハイウェイ』でも、「売り」となっているジブリ風のテイストや、宮崎監督の匂いが感じられる映画になるのだろうと予想していた。


■新境地を作り上げたクリエイターたち


 しかし、実際に作品を観ると、暗い森の描き方などに代表されるように、たしかにそこにはスタジオジブリのフレーバーが随所に漂いつつも、本作においてはそれがいつもより抑えられ、かなりの部分で払拭されているように感じられる。スタジオポノックの長編第1作『メアリと魔女の花』が、あまりにジブリの作風をそのまま押し出していたことを考えると、勝負作でこの試みを行うことは、石田監督としても、スタジオコロリドとしても、一つの挑戦であり、また独自の色を模索する上で必須の行為であるように思われる。


 さて、この非・ジブリなテイストはどこからくるのだろうか。一つは、本作でキャラクターデザインを担当した、ジブリ出身の新井陽次郎(短編『台風のノルダ』監督)が、おそらく意識したうえで、現在のマンガ作品のトレンドなども取り込みつつ、やわらかで繊細な絵柄から、よりシャープで現代的な印象の絵柄に変更したことが大きいだろう。


 もう一つは、以前もスタジオコロリド作品に協力したことがある、アニメ美術制作会社「株式会社 bamboo」のスタッフによる背景美術だ。bambooは、『攻殻機動隊』シリーズの一部や、『009 RE:CYBORG』などの「Production I.G」作品を多く手がけており、どちらかというと直線的でクールな絵柄が持ち味だが、今回は自然や住宅地という“ファミリー的”ともいえる要素を描きながらも、そのシャープさを活かしていると感じられる。


 さらに、アニメ『四畳半神話大系』(2010年)、『夜は短し歩けよ乙女』(2017年)の、森見登美彦と上田誠による原作・脚本コンビによる、日常の中にSF世界が侵食してくる物語の内容も、ある種のハードな質感を含んでおり、それら要素が、作品に気持ちの良いエッヂを与えているように思われる。野暮ったい印象のあった『陽なたのアオシグレ』と比べると、複数の意味において飛躍的に洗練されたものになっているといえる。


■ユーモラスな宇宙への飛躍


 興味深いのは、主人公となる勉強・実験好きの小学生男子「アオヤマ君」が、性に目覚め始め、歯科医院に務める奔放な性格の「お姉さん」のおっぱいが、終始気になってしょうがないという、ファミリー向け映画としては少し際どさを感じる部分だ。アオヤマ君は、おっぱいのことを考えると精神が落ち着くので、日に30分くらいはそのことについて考えるようにしていると語り、親友をドン引きさせる。彼は自分の身に芽生えた性的な衝動をも、客観的な事象として捉えようとしているが、小学生としてはきわめて明晰な頭脳を持ちながら、知識の不足によって少々個性的な理解をしているところがユーモラスだ。


 お姉さんの無防備な寝顔は、非常にフェティッシュな作画・演出によって描かれており、それをじっと眺めながら、なぜお姉さんの顔や身体は自分を幸せな気持ちにさせるのかということについて、真剣に思考を巡らせるアオヤマ君の探求は、よくある日本のアニメーション独特の、ポルノ的ともいえる煽情的な表現を通過しつつも、それがただ女性キャラクターの“エッチさ”を消費するだけでなく、多くの観客に共通する普遍的な恋愛感覚を捉えているという意味で、作品のなかで描く必然性があるように思われた。


 「おっぱいから宇宙へ」という物語上の飛躍というのは、新海誠監督の『君の名は。』(2016年)にも見られた、個人的感覚と宇宙の感覚を結び付ける、一部で「セカイ系」と呼ばれる作品の特性とも重なる。これはどちらがどちらかを模倣したというよりは、同時代性によるクリエイターの世界観の共通感覚として理解され得るものであろう。


 ただ原作小説が、このようなミステリーの静的な要素をも多く含んでいるため、石田監督の得意とする、感情とスペクタクルを同期させた爆発的な表現が発揮しにくいという問題がある。そこは監督の持ち味に合わせ、原作の魅力を保ったままで、出来得る限り脚本の構成を変えるべきだったのかもしれない。とはいえ謎解きやテーマ自体は、いままでのスタジオコロリド作品の比ではない奥行きと複雑さがあるため、その意味で興味を持続させる力はあるように思える。


■『ペンギン・ハイウェイ』の表現するテーマ


 さて、その「奥行き」とは何なのか。本作に描かれているのは、「アオヤマくん」と「お姉さん」との、ひと夏の冒険と淡い恋愛であり、やがては舞台となる住宅地や、それ以上の範囲に広がる脅威となっていく、複数の謎の解明である。最終的にはそれらが一つの事象として収斂されていく。いったい、これは何を表しているのだろうか。


 そのヒントになっているのが、作中のある描写だと思われる。アオヤマ君のクラスメイトである、ガキ大将の「スズキ君」は、アオヤマ君にいちいち突っかかり、優越感を得ようと躍起になる登場人物だ。それは彼が、同じくクラスメイトの女子「ハマモトさん」に恋愛感情を抱いていて、彼女と仲の良いアオヤマ君に対して嫉妬の感情があるからだ。男子学生にはありがちなことだが、スズキ君は、好きな女の子に対して「好きだ」と言えないために、回りくどい屈折した行動をしたり、直接関係のない努力をしてしまうのだ。そのことをハッキリとアオヤマ君に指摘されるシーンでは、それが図星なだけに激高してしまう。


 それはまた、多くの人にとっても覚えのあることであろう。例えば、「賞を穫って、自分をバカにした人物を見返したい」とか、「誰かの役に立つ仕事を成し遂げて、あの人に認められたい」など、本当に求めているものは、特定の人物の気持ちの変化だったりするのだが、人は往々にしてそことは向き合わずに、より困難な道へ向かうことで多大なカロリーを消費し、回り道をしてしまうのだ。


 それは、そのような滑稽な行動を指摘したはずのアオヤマ君自身にも跳ね返ってくる事実なのではないか。彼が夢に見る「綺麗な顔と、豊満なおっぱいを持つ、お姉さんとずっと一緒にいたい!」という想いは、社会的な常識からいえば叶えられない願望である。冒頭で彼が語る、お姉さんとの結婚への想いは、少年の一方的な幼い憧れに過ぎないのだ。そして、彼はそのことにいつかは気づかねばならない。このような「どうにもならない現実」があることを受け入れることは、成長する上で誰もが突き当たる壁なのである。それを乗り越えることができなければ、ストーカー行為やDVなど、問題行動を起こすような大人になってしまうかもしれない。


■逃れられない現実との対峙


 「人間はいつか死んでしまう」という事実に直面した幼い妹が、突然に泣き出して、アオヤマ君に救いを求める場面があったように、人間はいつか、どうにもならない現実と向き合わねばならないときが来る。それをはじめて発見し理解したとき、まさに個人にとって、耐えがたい苦痛をともなった“世界が反転する”ほどの衝撃が訪れることになる。


 現実に対峙すること。そこから目を逸らさずに痛みを引き受けること。それを行うことが、人間の真の成長なのではないだろうか。明晰な頭脳を持ちプライドの高い、“面倒くさい”人物ともいえるアオヤマ君が、残酷な一つの客観的事実を受け入れるためには、このような複雑に入り組んだ物語を経験し、自らそれを解いて納得するというプロセスを必要としたのだろう。


 この物語は、それ自体が見事にこのようなテーマを浮き彫りにしている。石田監督は、こういった文学的な題材を引き受けるにあたって、「いまの自分にはまだ早いかもしれない」と感じていたという。たしかに、いままでの単純な作品とは段違いに難しい内容である。しかし、この描写困難な物語を、自分の得意な表現を抑えてまで、真摯に丁寧にアニメーション化したことで、このテーマはしっかりと伝わってくる。ここでは作品を良くする方向に、最大限に力を尽くすことが内容的な成功を引き寄せたように感じられる。『ペンギン・ハイウェイ』から感じる、ひたむきな爽やかさというのは、作り手のこのような姿勢からも来ているはずである。(小野寺系)