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木村拓哉と二宮和也、アプローチの異なる名演! 『検察側の罪人』が必見作である理由

2018年08月23日 06:02  リアルサウンド

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 なにはともあれ、『検察側の罪人』は木村拓哉や二宮和也の作品である前に、原田眞人監督の作品である。原田眞人の作品であるということは、つまり「リアルな映画」であるということだ。『突入せよ!「あさま山荘」事件』や『日本のいちばん長い日』のように史実に基づいた作品も少なくない原田眞人だが、ここでいう「リアル」とは、設定やストーリーにリアリティがあるという意味での「リアル」ではない。メインのキャラクターたちはもちろんのこと、スクリーンの隅に配置された登場人物にも類型的なキャラクターは見当たらず、すべてのキャラクターに血が通っているということ。劇中でそのキャラクターの背景が語られる、語られないにかかわらずだ。そして、その「リアル」さをさらに加速させているのは、原田眞人作品ではお馴染み、原田眞人の長男にして名映画編集者として知られる原田遊人による、現実の断片を次から次へと重ねていくようなスピーディーな編集。そこでは、映画的な余韻は極力排除されていて、台詞は感情とともにその音量も速度もその都度変化して、別の台詞と無造作に重なっていく。観客によっては、すべての台詞を聞き取ることが困難なことに戸惑う人もいるかもしれないが、現実の世界がそうであるように、そもそもすべての言葉が聞き取れる必要などないのだ。


参考:SMAPは日本映画界に何を残したか? 宇野維正が振り返る「SMAPの映画史」


 原作のストーリー自体が滅法面白いこと、脚本も手がけている原田眞人がさらにそこに仕掛けた強烈なメッセージ。『検察側の罪人』が実写日本映画において近年稀に見るほど多層的にして重厚な作品となったのは、まずは、そんな「物語」と「作家性」の極めて高い次元での両立にある。その上で、作品のエンターテインメント性を増幅させているのが、メインのキャラクター2人を担った木村拓哉と二宮和也の、それぞれまったくアプローチの異なる名演だ。


 木村拓哉が検事役を演じるといえば、誰もがまず彼の代表作の一つである(さらに言うなら、長いキャリアを通じて唯一繰り返し同じ役を演じてきた)『HERO』を思い浮かべるだろう。本作では大胆なことに、それを踏まえてか(さすがに偶然ということはないだろう)、さらに松重豊や八嶋智人や大倉孝二という『HERO』シリーズでお馴染みの役者たちも重要な役どころで登場する。しかし、作品が始まってすぐ、正確に言うなら木村拓哉演じる最上毅検事の表情がアップになった最初のワンカットで、一瞬にして『HERO』久利生公平のイメージは遠い記憶の彼方へと追いやられるだろう。原田眞人監督にしてみれば「してやったり」といったところだろうが、これまで数々の職業的スペシャリストを演じてきた木村拓哉にとって、同じ検事役でまったく異なるキャラクター像をゼロから作り上げていくのは容易なことではなかったはずだ。


 本作のタイミングで自分がおこなった木村拓哉のインタビューでその話題が出ることはなかったが、他のインタビューに目を通すと、どうやら今回の撮影に入る前、原田眞人監督は木村拓哉に、米HBOのテレビシリーズ『TRUE DETECTIVE』シーズン1でマシュー・マコノヒーが演じていた主人公の刑事(検事ではない)のイメージをそれとなく伝えていたようだ(なぜかそのインタビューで作品名はぼかされていたけれど)。木村拓哉とマシュー・マコノヒー。言われてみれば、そこに共通する役者としての「匂い」を感じさせる両者だが、さすが、日本の芸能界に対して先入観も偏見もない原田眞人監督ならではの新鮮な視点と言うしかない。最上毅という清濁併せ呑む複雑なキャラクターを演じる上で、木村拓哉にとっても重要なヒントとなったようだ。演じる役の職業的背景も含めて一つの作品に入っていく上で熱心に学習し、吸収し、それを身体表現へと昇華させてきた役者・木村拓哉にとって、本作は新たな代表作にして、大きなターニングポイントとなることだろう。


 一方、役者の仕事においては「ふらりと現場に現れ、ふらりと現場から帰っていく」といったようなイメージを、共演者の証言だけではなく、自身のインタビューでのこれまでの発言からも形成してきた二宮和也。以前は頻繁に「台本は自分の台詞のところしか読まない」とも語っていたが、本作のタイミングで自分がおこなったインタビューではこんなことを語ってくれた。


「何かの役を演じる時に、医者でも検事でもそうですけど、その職業のことはあまり見てないんですよ。すべての作品は結局のところ人間ドラマだと思うから。一つの組織があって、そこに先輩がいて、自分は後輩で、一緒に事件を調査することになって。そこでも、その事件がどうこうということよりも、その事件に関わっている時にそれぞれの人の心の中に動きがあって。自分が演じるのは、人間であり、その心の動きだから。自分がそこで考えるのは、それがちゃんと伝わるかどうかってことだけです」(『シアターカルチャーマガジン T. 38号』)


 別に自分はここで「努力型の木村拓哉」と「天才型の二宮和也」といった類型を提示したいわけではない。言うまでもなく、これまで木村拓哉は役者としてもその天才的な反射神経を発揮してきたし、きっと二宮和也は「努力を努力と見せない」という強固な美学の持ち主だ。しかし、芸能界的な事件として情報だけが消費されがちな「木村拓哉と二宮和也の初共演」は、それ以上にまったく異なるアプローチ方法を持ったスターアクター同士の共演として、極めて興味深い「スクリーンの中で起こっている事件」であることは強調しておきたい。


 思えば、木村拓哉は90年代中盤から、二宮和也は00年代中盤から、映画でもドラマでも、少なくとも国内で製作された作品に関してはほとんどすべての作品で主役スターとしての重荷を背負ってきた。しかし、他のどんな役者もそうであるように、木村拓哉にも二宮和也にも、役者としての活動初期には「異常に吸引力のある脇役として注目を集める」というフェーズがあった(三番手として出演した1993年のドラマ『あすなろ白書』(フジテレビ系)が木村拓哉ブームの、さらにはSMAPブームの起爆剤となったことはあまりにもよく知られている逸話だろう)。『検察側の罪人』の役者としての「座長」的立場が木村拓哉であったことは間違いないが、木村拓哉も、そして二宮和也も、本作ではまるで役者としての活動初期のように、作品の看板を背負うことのプレッシャーから解放されて、近年の作品では見たことがないほど活き活きと役を演じている。


 原田眞人監督はそうしたこともすべて計算ずくで、実際に作品を観た人ならば誰もがわかるほど明白に『検察側の罪人』を自身の作家性とメッセージで染めあげてみせたのかもしれない。「責任はすべて俺がすべてとる。だから好きなようにやってくれ」といったように。木村拓哉にとっても、二宮和也にとっても、本作が「特異点」ではなく、役者としてのさらなる黄金期への有意義な「ステップ」となっていくことを心から期待している。(宇野維正)