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引退作になるのは惜しい ヤン・シュヴァンクマイエル『蟲』が生み出す“良い意味での不快感”

2018年08月11日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 御年83歳になるヤン・シュヴァンクマイエル自らがカメラに向かって語りかける冒頭。前作『サヴァイヴィング ライフ -夢は第二の人生-』と、その前の『ルナシー』と、近年やたらと自作に出るようになったシュヴァンクマイエルだが、いずれも冒頭シーンで、その作品について解説している。果たして映画にそのような“前置き”が必要なのかは色々と考えさせられる部分ではあるが、それがこれから始まる奇特すぎる世界への導入の役割を果たしていることは言うまでもない。


参考:“史上最もグロテスクな映画”【動画】


 この『蟲』という映画では、劇中でモチーフとなるチャペック兄弟の戯曲『虫の生活』がどのような位置付けに置かれていた作品であるかを解説し、同作が持つペシミズムを映画のテーマにはしていないこと、さらに「合理性」と「道徳」を排除し「教訓」めいた作品を作らないために、あらゆる衝動を断ち切ることを語る。深く掘り下げれば政治的な批判が介在しているとの見方もできるシュヴァンクマイエルの諸作ではあるが、表面的にはそのような野暮ったいファクターを超越させてしまうのが彼の作品の何よりの強みであろう。


 それにしても、オープニングタイトルから見受けられる大量の虫たちの姿には、これまでの彼の作品とはまた違う(良い意味での)気持ち悪さと不快感が生まれる。「良い意味での不快感」とは随分と矛盾したような言葉に思えるが、画面にそれが映し出された時に、視覚から伝達されていく拒絶反応が、最終的には映画全体において意味を持ったものであると解すことができるある種の「合理性」であると、これまでの作品では捉えることができた。しかし、それを排除すると宣言された本作では、どんな意味を持つのか。90分強の作品を観終えて、少し頭をひねってみたところで、結局のところ社会風刺としての一端を担っているという結論にしかたどり着きようがない。人間の貪欲さや醜悪さ、そして欲望に忠実な様。


 その点においては、いつも通りのシュヴァンクマイエルの作品と言っても間違いではないだろう。ただ、映画全体に流れる雰囲気がどこか違う。町の小さな劇団員たちがチャペック兄弟の『虫の生活』を舞台化するための練習をしている光景に始まり、突然その空間にシュヴァンクマイエルを始めとした映画制作現場のスタッフが登場することで、たちまちメイキングフィルムへと様変わりしていく。一見すると複雑ではあるが、大きく分けると「舞台稽古をする劇団員たちの物語」と「それを描写した映画のメイキング」のいたってシンプルな
2段構えということだ。


 もちろんシュヴァンクマイエル作品の持ち味である、グロテスクなアニメーションの挿入は、前者の方にしっかりと行われている。人間たちが突然虫に姿を変えてしまったり、窓の外にはルネ・ラルー的にもルネ・マグリット的にも見える異質な空間が拡がっていたり。ところが後者では、メイキングフィルムとして、それら“持ち味”の種明かし。すなわち手の内を堂々と見せてしまう荒業に打って出るわけだ。


 ドラマ未満であり、ドキュメンタリー未満でもあるふたつのステージが合わさって、ひとつの映画が誕生している。終盤に至るに連れてその境界が徐々に失われつつあると、今度は舞台の上とその外の世界、窓の外と内側という新たな境界を作り始める。しかしそれらが、ほとんどひとつの狭い空間の中で展開されていくあたり、彼の20年以上前の怪作『悦楽共犯者』のような閉塞感の中で、狂気と変質にまみれた「芸術」という妄想の狂気を活写しているようにも思える。「芸術」に群がる「蟲」たちの巣窟を、その空間をリードするシュヴァ
ンクマイエル自らが愉快痛快に皮肉っているといったところだ。


 どうやらシュヴァンクマイエルは本作を最後に映画監督から退くという意思を表明しているという。本作の制作にはクラウドファンディングが行われ、ブラザーズ・クエイやギレルモ・デル・トロら世界中の錚々たる映画作家たちが支援を行ったそう。初期には検閲という現実を超えていった彼であっても、商業主義の中でシュールレアリズムを貫く作品への出資が減り、資金繰りが難しいという現代の映画を取り巻く現実だけは超えることが難しいようだ。


 『ファウスト』以降は長編制作に徹したこともあってか、半世紀に渡るキャリアの中で意外にも35本の作品しか公式に発表していないシュヴァンクマイエル。己の個性を貫いた一定のクオリティの作品を維持しているとはいえ、制作ペースに比例するように悪夢的な作風が持つパワーが失速していったことは否めない。とはいえチェコの映画界を牽引してきた存在が、このまま幕を閉じてしまうのはあまりにも惜しい。まだ映像化していない脚本がたくさんあるという噂もあるだけに、久々に尖った新作短篇でも作ってくれないだろうかと期待してしまう。(久保田和馬)