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石原さとみは“愛”を選択するだけではない? 『高嶺の花』に隠されたテーマを読む

2018年08月08日 06:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 石原さとみ主演最新作『高嶺の花』(日本テレビ系)の放送前には、石原さとみ演じる月島ももが、非の打ちどころのないヒロインだということが、大きく報じられていたと思う。もしかしたら、私がただそこを見落としていただけかもしれないが、事前に番組で宣伝しているのを見ても、“容姿端麗、才能にも恵まれたヒロイン”というところが目についていた。


参考:ネットでは「羨ましい」の声 『高嶺の花』石原さとみ&峯田和伸のキスシーンを振り返る


 だが、始まってすぐに我々は驚くこととなる。石原さとみが、警察に連れていかれるところからスタートするからだ。ももは、結婚式当日に別れた婚約者(三浦貴大)に対して、ストーカーとなってしまい、つきまとい禁止令が出されていたのだ。ドラマの初回の掴みとしては、これほど驚かせるものはないだろう。


 このドラマ、始まる前は、完璧な女と冴えない男のラブストーリーであり、野島伸司が脚本を担当するということから、1991年のフジテレビの月9ドラマ『101回目のプロポーズ』が現代によみがえるものだと期待されていた。もちろん、本作はそのテーマも十分感じさせるのだが、2018年だからこそ加わった部分がある。


 『101回目のプロポーズ』では、元婚約者を事故でなくしたチェリストのヒロイン(浅野温子)が、武田鉄矢演じる「冴えない」サラリーマン・星野達郎の情熱によって、過去の悲しみから救われるという物語が描かれていた(冴えないとはいえ、星野達郎は法学部出身で最後にはまた司法試験に取り組むのだが)。しかし、『高嶺の花』には、ヒロインが冴えない男性・風間直人(峯田和伸)の情熱にほだされ、それで救われる以外にも大きなテーマが隠されている気がする。


 それは、芸術家の才能を持ったものは、その道を究めるために、孤独を背負い、修羅の道を選ぶべきなのか、たぐいまれなる美貌を持って生まれたものは、高嶺の花として遠くからそっと腫物を触るように眺められるだけなのか、という点である。


 ももはすでに、芸術家としての修羅の道を歩んできたために、結婚を機に、その道を究めることからドロップアウトしようとしていた。婚約者と別れ、風間と結ばれるとしても、ここでももが、自分の才能を捨てて、平凡な愛を選択するようなドラマにはならないのではないか。


 石原さとみは、『失恋ショコラティエ』(フジテレビ)では、松本潤演じる小動から一途に惚れられ、また彼の創作意欲の源になると崇め奉られる吉岡紗絵子を演じた。ミューズではあるが、プレイヤーではなかったのだ。しかし、『高嶺の花』では、創作の面では自分自身がその真ん中に立たされている。その上で、美貌を持っていることで、男性たちから、自分自身の表面だけ(見た目や家柄)で見られているということにも気づいている。つまり、ももは、プレイヤーであり、ミューズでもあるのだ。


 だからこそ、ももは自分の家柄や才能など、なんの情報もない状態で、風間直人の前に現れる。その後も、ももは直人たちにキャバ嬢と勘違いされたままで付き合っていくのだが、彼女が自分の正体を明かさないのは、なにもない自分をどこまで直人が見てくれるのか、それが知りたいからではないだろうか。


 2018年の恋愛ものは、単に直人の真心がヒロインの閉ざした心を溶かすだけでは関心を得られない。ここからは私の予想であるが、彼女がさまざまなものを背負っているのを知ったとき、直人がどんな行動をとるのかが、このドラマの肝になるのではないだろうか。そのときに「僕は死にましぇん!」以上の名台詞が生まれたりするのだろうか。(西森路代)