この原稿は映画の重要な部分に触れています。映画を見終わってから読むことをおすすめします。
『未来のミライ』は、家族の物語ではない。
この映画は4歳のくんちゃんという、赤ちゃん時代の残照の中でまどろんでいた4歳のくんちゃんが、子供としての一歩を踏み出す物語だ。その一歩は小さな一歩だが、人生と呼べるものの始まりを告げる大きな一歩でもある。
赤ちゃん時代との決別とはどういうことか。
4歳は脳の発達に伴い、現在と未来と過去が理解できるようになったり、他人と自分の区別がつくようになったり、時にウソをつくこともできるようになる年頃。
そうした発達は同時に本人にとってストレスでもあり、反抗期という形で現れる、それは4歳児にとって嵐の時期だ。思春期の嵐を覚えている人は多いが、4歳児の嵐を覚えている人は少ない。本作はそこにフォーカスした。
だから、ここでは両親の仕事がとか、暮らしぶりから想像できる年収がとか、そういうことは映画の本質とはあまり関係ない。
多様化した現代において、『ホーホケキョ となりの山田くん』のように、“どこかにいそうな庶民的な家族”という存在を想像するのは難しい。
“普通の家族”を描くのが難しい時代に家族を描こうとすると、それは何がしかの偏り(“普通”とは思えない部分)を孕まざるを得ないということだ。
映画は、くんちゃんの家に、生まれたばかりの妹ミライちゃんがやってくるところから始まる。
お父さん、お母さんは新生児のミライちゃんにかかりっきりで、これまでのように甘えられないくんちゃんは赤ちゃんがえりしてしまう(もちろん本人は“赤ちゃんがえり”しているつもりなどないが)。
そんなある日、くんちゃんは中庭で不思議な体験をする。この不思議な体験のエピソードは、5つ用意されていて、それぞれに切り口が設けられている。そして、このエピソードを経て、くんちゃんは「子供としての自己」を確立していくのだ。
最初のエピソードは、思わず未来ちゃんを叩いてしまい、怒られたことがきっかけで始まる。
くんちゃんが、中庭に出ると「くんちゃんが生まれる前のこの家の王子」を名乗る男が現れる。実はこの男は、飼い犬のゆっこなのだ。くんちゃんは、ゆっこの尻尾を引っこ抜いて、自分のおしりに挿してしまう。
ちなみに、これと次のエピソードに出てくるハチゲーム(一種のくすぐりっこ)で、性欲という形に分化する前の子供のエロスを正面から描いていて、この映画がくんちゃんの映画であることを強く印象づける。
尻尾を挿してみるみるゆっこになっていくくんちゃん。ゆっこになって家の中で大暴れをして、すっきりとしたくんちゃんはご機嫌に戻る。
この最初のエピソードからわかる通り、くんちゃんはこの時点ではまだ、「自分」が確立されておらず、他人との境界が曖昧なのだ。だからゆっこになってしまうことができる。
くんちゃんの今の状態を描いたこのエピソードは、いわば「起」だ。
次のエピソードは未来から中学生になったミライが初登場。
人間の姿のゆっこも交えた3人が、お父さんに知られずにお雛様を片付けようとする騒動がコミカルに描かれる。
こちらは、中学生のミライを観客に知ってもらうための「承」といったところだ。
3番目のエピソードは、部屋を散らかしてお母さんに怒られたことから始まる。
かんしゃくを爆発させたくんちゃんが中庭に出ると、グッピーの群れが現れて、気がつくとくんちゃんは知らない街にひとり。
くんちゃんはそこで出会った同い年ぐらいの女の子の家に招かれる。2人は、女の子の家でおもちゃを広げ、お菓子を食べ散らかして、大騒ぎして遊ぶ、そこに女の子のお母さんが帰ってくる。女の子はくんちゃんを逃して、自分はお母さんに怒られる。
くんちゃんは自分と同じようなことをしてしかられる女の子に「共感」をする。
実はこの女の子はお母さんの小さい頃の姿。単に「共感」を描くだけなら幼稚園の同級生とのエピソードでもいいわけだが、そうではなく、時間を超えたエピソードにすることで、「共感」だけでなく、こういう子供と親のやりとりは過去から未来へと繰り返されてきたことも無言のうちに示されている。
4番目は、補助輪を外した自転車にうまく乗れなくて、癇癪を起こしたくんちゃんが、大人のお兄さんと会って馬やバイクに乗せてもらうエピソード。
この青年はくんちゃんにとっては、実の曽祖父にあたる人物。馬上でこわがるくんちゃんに、彼は「遠くを見るんだ」とアドバイスをして、それがくんちゃんの自転車を乗りこなすヒントになる。
4歳児は初めて自転車に乗る子供が多い年齢だが、補助輪をとるにはまだ若干早い年齢。
でも、自転車は“子供の自立”を象徴するアイテム(行動の範囲が大きく広がる)だからこそ、このエピソードが採用されたのだろう。自転車を接点として、くんちゃんと青年の曽祖父が重ね合わされ、くんちゃんの小さな変化が大人へとつながっていることが暗示されている。
幼いお母さんのエピソードが過去からのつながりをを浮かび上がらせる一方で、こちらはくんちゃんの未来を言外に示しているのである。
3番目のエピソード、4番目のエピソードでは、4歳児の嵐という一点の中に過去と未来が含まれていることが描かれている。
扱う時間の範囲がぐんと広がって、くんちゃんの話であってくんちゃんの話でない普遍性を持ってくるところが、この映画の「転」となる。
そして最後のエピソードは、夏の旅行に出かけようとする時、くんちゃんお気に入りの黄色いパンツが洗濯中だったことがきっかけとなる。
くんちゃんはまた「家出をする!」といってへそを曲げ、そうこうしているうちにまた中庭から不思議な世界へと入っていく。
そこでまず出会ったのが、不機嫌そうな男子高校生。後に明かされるが、観客の予想通りこの男子高校生は、思春期の嵐の只中のくんちゃんなのである。
自分も嵐の中にいるから、くんちゃんがふてくされている理由がわかるのだ。人生の中に嵐の季節は何度もやってくる。
その後、くんちゃんはやってきたローカル線に乗り組み、“東京駅”について迷子になってしまう。
遺失物係に、迷子になったことを告げると登録のために、お父さんやお母さんの名前を求められるが、くんちゃんは答えられない。ゆっこの名前を挙げてもペットは受け付けられないという。迷子の登録ができずないこどもは、黒い新幹線で「ひとりぼっちの国」に送られてしまうという。
謎の力で黒い新幹線に引きずり込まれそうになるくんちゃん。その時、改めて「ひとりぼっちの国」に行きたくないなら、自分自身を証明する必要があると迫られる。そこでくんちゃんは、いろんな言葉で説明する。
しかしここでも「お父さんの子供」「お母さんの子供」では認められない。
そこに現れたのは赤ちゃんのミライちゃん。くんちゃんは、ミライちゃんが黒い新幹線に吸い込まれようとするのを阻止する。そして「くんちゃんはミライちゃんのお兄ちゃん」と叫ぶ。すると、今度は女子中学生姿のミライちゃんがくんちゃんを救いに現れる。
このくだりは、まず第一に「赤ちゃん返りしていた、くんちゃんがお兄ちゃんの自覚をもった」というふうに見られるだろう。
ただ無視できないのは、遺失物係の問いかけが「自分の証明」である点だ。どうして「お父さん、お母さんの子供」が証明にならずに、「ミライちゃんのお兄ちゃん」が証明になるのか。
くんちゃんはお父さん、お母さんの名前を言えない。つまり、「お父さん、お母さんの子供」という言葉には、生まれた時から続く自他の境界がまだ確立する前の関係という意味合いが含まれている。だからこそ「自分」の証明にはならない。
ゆっこも同様で、最初のエピソードで同化してしまったように、ペットはそれを対象に「自分」を形作る存在ではない。
そういう状況にあって、(この映画で描かれた範囲では)名前をもった未来だけが、くんちゃんにとって純然たる“他人”なのだ。
だから、それを対象化することで、くんちゃんは自己確立をすることができる。単に「お兄ちゃんになりました」では済まない、自己確立の瞬間が描かれたエピソードだからこそ、このエピソードは「結」足り得るのだ。
このように本作は、嵐の時期を生きる4歳児が自己確立をする過程の中に、過去と未来を織り込んだ作品として出来上がっている。
くんちゃんを助けた女子中学生のミライちゃんは、くんちゃんがもとの時間に戻るために、曽祖父に始まり、さまざまな人の気持ちや人生が織りなす大きなツリーの中を飛行していく。
これは、様々な人生が偶然交差するところに生まれた「結節点」こそが人間であるということを描いており、くんちゃんがようやくその鳥羽口にたった「人生」というものを大きく俯瞰して描いてみせている。
自己確立という主題は、思春期を題材に描かれることが多い。それを、思春期と同じく自己確立の時期である4歳を選んだことが本作のユニークな点だ。
そしてそれを時間、空間、登場人物を絞り込んだ上で描くというミニマムな語り口の見事さ。松谷みよ子の『モモちゃんとアカネちゃん』シリーズにも通じるような、なかなか例のない映画だ。