■「驚き」を生む宇多田ヒカルの新作『初恋』
宇多田ヒカルの7枚目のオリジナルアルバム『初恋』は、これまでの宇多田ヒカルのディコグラフィーの中では極めて異色の作品だ。もしこれを機に今後の宇多田ヒカルの作風が変わっていくのだとしたら、本作はそのターニングポイントということになる。アルバムがリリースされてから1か月近く経つにもかかわらず、(もちろんすべてのレビューに目を通しているわけではないが)あまりそのような指摘がされていないのが気になっていたところに今回の原稿依頼が来たので、まずはそのことについて明らかにしていきたい。
最初の驚きはアルバムの1曲目“Play A Love Song”からやってくる。前作『Fantôme』の1曲目“道”同様、四つ打ちのビートと、ピアノが主導するアップリフティングな旋律が印象的なアルバムのオープニングソングだが、今回の“Play A Love Song”では大所帯(8人)の女性コーラス隊によるバックボーカルが、コーラスのパートだけでなく、ヴァースの合間にも、まるで宇多田ヒカルのボーカルと掛け合いを繰り広げるように頻繁に入ってくる。これはゴスペルにおける聖歌隊の役割を倣ったもので、その音楽的意図は明確だが、結果的に「宇多田ヒカル」名義の作品において、シンガーやラッパーの客演があった楽曲以外で宇多田ヒカル以外の声が聴こえてくる、“Goodbye Happiness”以来となる2つめの楽曲となった。
■「生音」から「生演奏」への変化。しかし密室性は不変
驚きはコーラスだけじゃない。同じような趣向を持つ“道”と比べても、明らかに立体的で肉体的な感触のリズムが鳴っている“Play A Love Song”には、パーカッションとアディショナルドラムにクリス・デイヴが、シンセベースにジョディ・ミリナーが参加している。そして、よりサウンド全体の中での生音比率が上がっていく2曲目“あなた”以降の楽曲においても、その両者か、ドラムではクリス・デイヴに代わってシルヴェスター・アール・ハーヴィンがほとんどの曲のレコーディングに参加。そのほか、ルーベン・ジェームズ(ピアノ)、サイモン・ホール(指揮、ストリングスアレンジ、ピアノ、アナログシンセほか)ら錚々たるミュージシャンが作品をバックアップしている。
エンジニアを務めているスティーヴ・フィッツモーリスのコネクションだろう。スティーヴ・フィッツモーリスが近年手がけているサム・スミス作品の参加ミュージシャンたちに、ディアンジェロやアデルなどとの共演でも知られる世界屈指の天才ドラマー、クリス・デイヴが加わったという大まかな認識で間違いはない。
これまでの宇多田ヒカルの作品にも数多くの有名ミュージシャンが参加してきたし、スティーヴ・フィッツモーリスが参加するようになった前作『Fantôme』と重なるミュージシャンも多い。ただ、『Fantôme』までは宇多田ヒカルが描いた精密な設計図に従って、名うてのミュージシャンたちが忠実に音の肉づけをしている印象が強かったが、今作『初恋』では(あくまでも部分的にだが)ミュージシャンに音を委ねているように聴こえる。つまり、これまでの宇多田ヒカルの作品から聴こえてくる「生音」があくまでも「生音」だったのに対して、今作『初恋』からは「生演奏」が聴こえてくるのだ。これは、「宇多田ヒカルの音楽史」的にはあまりにも画期的なことだ。
これまで聴こえてこなかった「コーラス」や「生演奏」が宇多田ヒカルの歌声と一緒に聴こえてくることで、宇多田ヒカルの音楽が何を新たに手に入れて、何を失ったか。それはリスナーが個々に発見すべきものだろうが、不思議なのは、宇多田ヒカル作品特有の密室感は本作においても不変であることだ。普通に考えたら音楽的に他者に委ねる部分が増えれば、それだけ作品の有機性や偶然性も増し、風通しも良くなりそうなものだが、2018年の世界や時代との接点の多さという点では、前作『Fantôme』と比べても今作『初恋』は後退しているように自分は感じた。
■「時代と関係のないところで生きてきたのでわかりません」。孤高の才能と、日本音楽ビジネスの功罪
「今をどのような時代であると思いますか?」「時代と関係のないところで生きてきたのでわかりません」。「その中で、音楽はどのような役割を担っていると思いますか?」「音楽に責任はありません」。アルバム『初恋』のリリースに先駆けて公開された、タワーレコードの宣伝ポスター。そのコピーとなっていた上記の問答はソーシャルメディア上でも拡散されて、宇多田ヒカルの孤高のポジションを自身が言語化した発言として、ほぼ賞賛一色の大きなリアクションを集めていた。
しかし、本当に宇多田ヒカルは時代と関係のないところで生きてきたのだろうか? 2010年から2016年にかけての休業期間は別としても、1998年12月にデビューして以来、時代ごと、アルバムごと、楽曲ごとの濃淡はあるものの、宇多田ヒカルの音楽も他の同時代の「流行歌」と同様にこれまで時代を強く反映してきたはずだ。それは「結果的に反映したものとして受け止められてきた」部分も大きいのかもしれないが、「結果的に反映したものとして受け止められてきた」ことの蓄積こそが、そのアーティストの持つ時代性なのではないだろうか。そこを見て見ぬふりをしてしまったら、それはもはやポップミュージックではないし、ポップカルチャーではない。
宇多田ヒカルの音楽のポップミュージック性、ポップカルチャー性を担保してきたものの一つは、今も昔も一つのアルバムがリリースされる前から1年以上、場合によっては数年もの期間を股にかけてその都度仕掛けられてきたタイアップソングという日本の音楽ビジネス特有のシステムだ。いまだにCDの一種販売を続けていること。ようやく過去音源はストリーミングサービスに提供するようになったものの、新しい音源に関しては頑なにネット上ではダウンロード販売のみであること。宇多田ヒカルのビジネスモデルにおいてはそのような良く言えば伝統的な、悪く言えば旧態依然とした「売り方」も注目されがちだが、自分がより興味深く眺めているのは、広告、映画、ドラマと、あたかもまだ1990年代が続いているかのように繰り出されているタイアップの数々だ。
■宇多田ヒカルの表現にとってタイアップソングは不可欠なのか? 日本の音楽シーンを「超越」しているがゆえに浮かぶ疑問
本稿はアルバム『初恋』を聴いた時の「驚き」から書き進めてきたが、もちろん“Play A Love Song”も“あなた”も“初恋”も“Forevermore”も“大空で抱きしめて”もテレビCMやテレビドラマを通して何度も何度もアルバムを聴く前から繰り返し耳にしてきた。宇多田ヒカルの音楽のファンならば、自分のように「もしアルバムを聴いた時が最初の出会いだったらもっともっと大きな『驚き』があったのに」と夢想してしまう人も少なくないのではないか。「そもそもタイアップ案件があったからこそそれらの曲が生まれたんじゃないか」というごもっともな意見には、「そろそろアルバム収録曲の約半分がタイアップ曲ではない宇多田ヒカルのアルバムを聴いてみたいだけなのに」と返すしかない(「約半分の曲がタイアップ曲ではない」宇多田ヒカルの最後のアルバムは、2001年の『DISTANCE』まで遡らなくてはいけない)。
そのような何十年も続いている日本のタイアップ主導の音楽業界のあり方に、自分は以前から限界を感じてきた。JASRACの規制が厳しくなったことで、街の中で音楽を耳にする機会も、爆音を垂れ流して走るアドトラックとすれ違う瞬間だけになった。パーソナルなデバイスを介してYouTubeやストリーミングサービスで音楽に接するのが当たり前になった今、意図せず耳に入ってくる「広告としての音楽」が本質的に宿している暴力性に、音楽をよく聴いている人ほど敏感になっているのではないか。「音楽に責任はありません」と言うが、その曲の広告効果によって(本当は買いたくもなかった)商品を買い、(本当は観たくもなかった)ドラマや映画を観た人に対して、本当に責任は生じないと言えるのだろうか?
「時代と関係のないところで生きてきたのでわかりません」。「音楽に責任はありません」。アーティストとしての宇多田ヒカルの超越性を表す言葉として、それらは確かに優秀なコピーだし(そう、これも広告だ)、アーティストにロールモデルを押し付けがちな大衆への牽制にもなっている。実際にアルバム『初恋』を聴けば、そこに込められたその音楽的なクリエイティビティーとスキルの高さを疑う余地はまったくない。歌詞やフロウに関しても、過去の自作の模倣に陥ることなく、今作でも驚くべき進化を遂げている。相変わらず、宇多田ヒカルの音楽的才気は日本の音楽シーンにおいてあらゆる点で「超越」している。そして、その「超越」した才気と作品を大衆とつなぎとめておくために、タイアップが一定の機能を果たしていることも理解できる。
しかし、2018年の世界や時代との接点が、「タイアップソングの果たしている機能」以外に見つけにくいのが今回のアルバム『初恋』なのだ。自分が今作で最も衝撃を受けた曲は、そのサウンドプロダクションにおいても詞作においても近年のRadioheadの作品を思わせる、アルバム終盤に収められている“夕凪”だ。先日放送されたNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』で、この曲がロシアの作家ウラジミール・ナボコフ『青白い炎』からインスピレーションを受けたことを知って、ちょうど同じ時期に生み出されたドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『ブレードランナー2049』(『青白い炎』の一節がセリフに組み込まれているだけでなく、作品全体がその多大な影響下にある)との共時性に興奮させられたたが、それは歌詞の表面を追っていくだけではたどり着くことのできない、曲の深層部における知見であった。優れた芸術作品の多くがそうであるように、きっとそのような暗号が今回のアルバムにもたくさん仕込まれているのだろう。ただ、それらをリスナーが発見できるかどうかは別の話だ。
■世界からの逃避願望? “あなた”が象徴する2018年の宇多田ヒカルとは
<戦争の始まりを知らせる放送も アクティヴィストの足音も届かない この部屋にいたい もう少し>。アルバム『初恋』を象徴する歌詞の一節を抜き出すとしたら、自分は“あなた”で歌われているこの一節を挙げる。今なお世界中を驚かすだけの才気を端々から発しながらも、慣れ親しんできた日本の音楽業界のシステムの中で、近年になってより深い関心を示すようになった「日本語の表現」を探求しながら、世界屈指の名プレイヤーたちと創作に打ち込んでいる宇多田ヒカル。そこからはどこか、人生、現実、そしてこの2018年の世界からの強い逃避願望が透けて見える。もちろん、そのことを責める権利は誰にもないわけだが。
つい先日も、トランスジェンダーの役を降板したスカーレット・ヨハンソンについて英文でツイートしていたことからもわかるように、個人としての宇多田ヒカルは、2018年の世界のあり方に強い関心を持つ一人の女性であるはずだ。しかし、過去の作品と比べても、今回のアルバム『初恋』からは、「個人」としての宇多田ヒカルと「音楽家」としての宇多田ヒカルが意識的に切り離されているという印象を受けた。「外部」から次々と舞い込んでくるタイアップのオーダーは、もしかしたらそんな現在の宇多田ヒカルにとって、創作上の大きな助けにもなっているのかもしれない。そう思い当たった時、自分はアルバム『初恋』の聴こえ方が最初とは少し変わってきた。(文:宇野維正)