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「シンカリオン」から考察する“ロボットアニメ”の現状と行方 藤津亮太のアニメの門V 第36回

2018年07月06日 19:03  アニメ!アニメ!

アニメ!アニメ!

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『新幹線変形ロボ シンカリオン』を見ていると、ロボットと新幹線という取り合わせがとても相性がいい、ということが実感できる。

そもそも日本のアニメの中の操縦型ロボットは、(まだ大人ではない)主人公に大きな力を与えてくれる“憧れの存在”としてあった。メカニカルな仕組みが、主人公の力を拡張してくれるのである。
つまり新幹線という日本最高の特急列車という題材は、そういう古典的なロボット像ととても相性がいいのである。(似たような理由で『トミカハイパーレスキュー ドライブヘッド』シリーズが題材にする“働く車”も相性がよい)。

しかし、ここ20年ほどの間にこの「メカニカルな仕組みによる拡張」への社会的な憧れは減じる傾向にある。
広く一般的な関心でいうなら「働く車」や「新幹線」をキャラクターとして愛するのは未就学児が中心で、小学生に上がれば『ポケットモンスター』といったゲームや各種カードゲームのほうが興味の対象になってくる。

さらに彼らの身の回りにあって、憧れを感じさせるメカニカルなガジェットはスマホやタブレットPCである。これらのデジタルガジェットは、ガジェットそのものの存在感以上に、その背後にあるインターネットというインフラの存在感が大きい。
だが、インターネットという存在が与えてくれる“拡張”は、脳の働きの拡張で、「働く車」「新幹線」のような身体の拡張ではない。インターネットとロボットは相性が悪いのである。
インターネットをその拡張性に基づいてフィクションに取り入れるなら、サイバーパンク――つまり『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』になるはずなのである。(だから逆にいうと『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』は、ロボットアニメのある種の進化系と考えることもできる)。

ここまではキッズ作品の方向からロボットアニメを取り囲む状況を整理してみた。
一方でハイターゲット向けのロボットアニメは、一定のニーズがあり、毎年数本は制作されている。ただし、それはどうしても「皆さんおなじみリアルロボットアニメ」の重力が強い。
そして、未就学児が見るロボットアニメと、ハイターゲット向けのロボットアニメをブリッジする作品が手薄くなっている。

ここで気になるのは、そういうロボットアニメの現状がありつつも、現実のロボットサイエンスはどんどん進んでいる、という点だ。
たとえばアメリカのボストン・ダイナミクスなどは、高性能な動きを見せるロボットを開発している。あるいは自動車の自動運転の機能、スマートスピーカーやIoT化もどんどん発達している。
ロボットサイエンスの発展や、身近なメカニズムのロボット化は、アニメ作品を駆動する“憧れ”として機能しないのだろうか?

それはおそらく“憧れ”になりうる。ただし、それは「自己の拡張」という形での“憧れ”ではないだろう。

『テクノポリス21C』という作品があった。1982年に公開された、SF刑事アクションものである。海外ドラマを意識した作品だったが、当時の制作技術でそれを貫徹するのは難しかった。
同作の特徴は、刑事がテクロイドというロボットとコンビを組んで行動するという設定だ。ただし、ロボットに人間的な個性は与えられていない。あくまで人間の命令に従う、補助的な存在なのである。

つまりテクロイドとは、人間のアシスタント(あるいはパートナー)なのだ。おそらくもっと人間臭いロボットのほうがアニメ的には馴染みやすいかもしれない。
でも今、我々が直面している技術の発展の延長線上でとらえると、この感情のないアシスタントロボットの存在がとても理解しやすい。これは36年前にはわからなかった切り口だ。

ロボットが、我々の「拡張された分身」ではなく、我々のパートナーになる。こういうパラダイムシフトが起きると、ロボットアニメにまた新しい切り口が生まれるのではないか。
この変化は俗な言い方をすると、ロボットの“ポケモン化”という言い方でとらえることができるかもしれない。

現実の中に胚胎する技術への“憧れ”をアニメに接続しようとするならば、この切り口は決してありえないものではないと思う。
そしてこの時、アシスタントロボットを描く時に3DCGは最適のツールといえる。手描きのキャラクターと3DCGのロボットの共存は、(技術的には極めて手間がかかるが)、そういう「人間でないものが人間に近い姿をして身近にある世界」のアナロジーとしても意味を持つ。

そうなった時、ロボットアニメにおける重厚長大の時代はようやくひとつの区切りがついて、新しい未来が見えるのではないだろうか。