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宮藤官九郎×石井岳龍が生み出した荒唐無稽な愉悦感 『パンク侍、斬られて候』に映る私たちの姿

2018年07月01日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 町田康の荒唐無稽な時代小説を、クドカンがシナリオ化し、石井岳龍が監督する。製作者はアクの強いこの3人をよくぞ集めたものだ。そしてその3つの固有名詞が醸す期待からまったく外すことはない。主人公のパンク侍、掛十之進には、『シャニダールの花』『ソレダケ / that’s it』に次いでこれが石井岳龍作品3度目の起用となる綾野剛だが、このカメレオン俳優は『そこのみにて光輝く』のようなリアリズムであれ、今回のようにパンク侍であれ、なんでも大丈夫だ。舞台となる田舎の弱小藩の街道筋に綾野剛がふざけたコスチュームで現れて、物乞いの男を極悪新興宗教の一味と決めつけ、いきなり人殺しする。この冒頭だけでこの映画世界がどれだけねじ曲がっているのかを、誰でも理解できることだろう。物乞いの出血がそこまで天高く噴き出さなくてもと思うが、景気のいい血糊の飛沫は、虹でも発生しそうなほどだ。


参考:永瀬正敏や國村隼らが明かす 『パンク侍、斬られて候』が抱える”現代性”


 しかしながら、この映画の荒唐無稽な愉悦感を説明することはむずかしい。特に、啞然とする後半の展開についてはまったく触れてはなるまい。何がどうなるのかは、とにかく楽しみに劇場に足を運んでいただくしかない。アメリカではすでに西部劇が衰亡して久しいが、玉石混淆とはいえ相当数の異色の剣劇アクションが更新されていく日本の時代劇というジャンルのしぶとい不滅さには、意表を突かれる思いだ。本来なら綾野剛演じる掛十之進は、名作『椿三十郎』(1962)の三船敏郎を下敷きにした名うての剣客なのだから、あざやかな腕前で弱小藩の危機を救わねばならないが、肝心の彼自身はホラ吹きのトリックスターでしかなく、はったりをかまして小金を稼ぐことにしか興味がない。そのはったりが想定外の広がりを見せたとき、不安になり、為す術なしとなる。


 綾野剛の掛十之進は物語の中心でありながら、どこか腰が引けていて、中心に君臨しようとしない。その代わりに豊川悦司と浅野忠信という2人のベテランが、石井監督の配置のもとであまりにも素晴らしい悪乗りの両サイドアタッカーを形成し、観客を異常な世界へといざなってくれるだろう。掛十之進はむしろ、私たち観客に近い存在であって、「なんだこれは」と眼前のできごとに対して最初に泡喰って見せ、観客の愉悦を扇動する役回りなのだ。また、真のゲームメイカーについてはここでは、これから見る方々に口外できるわけがない。


 豪華なキャストになんの躊躇もなく馬鹿げた役を割り当ててナンセンスをまき散らし、奇想天外なCG撮影がキッチュでアナーキーな地獄絵図を開陳してくれる。1978年のデビュー作『高校大パニック』( “数学できんが、なんで悪いとや” の印象的な予告編がテレビで流れて話題となった)から30年もの歳月を流れたが、セックス・ピストルズ「アナーキー・イン・ザ・U.K.」がついに石井岳龍映画を彩る日が到来したかと感慨深いとしか言いようがない。フルコーラスを流してくれている。以上のような素材が石井演出のもとで渾然一体となってディストピアを現出しているが、果たしてこれは空想のディストピアなのだろうか? ためしに、映画序盤の綾野剛と豊川悦司のこんなセリフに耳を澄ませていただきたい。


掛十之進(綾野剛)「ええと、ということはその、どうなるんでしょう?」
内藤帯刀(豊川悦司)「どうもならん。腹ふり党の危機を訴えてきた私は、面目を失い失脚。おぬしは死刑であろうな」
掛「え、やだ」
内藤「何をうろたえておる、詐欺師が。心配するな。腹ふり党は存在するし、この藩にやってくる」
掛「え、それは」
内藤「滅んだからなんだというのだ。銭をやり、人を集めて腹をふらせ、腹ふり党と呼べば済むことだ」
掛「それって擬装…」
内藤「ああ、インチキだよ。そもそも腹ふり党じたい、ハナからインチキじゃねえか。もっと言うと、お前もインチキだし、俺もインチキだし、この藩だってインチキだろ。財政的、モラル的にとっくに破綻してる。(上を向いて)終わってんだよ!! だったら皆で力を合わせて世の中を変えればいいって? ふん、それがしんどいから “大丈夫、大丈夫” って慰めあって、だましだましやってんだよ! それに比べりゃ、腹ふり党をでっち上げるなんざ、たやすいこと。何ビビってんだよ! お前なんかインチキがきもの着て、刀さして、歩いてるようなもんだろ? しっかりしろよ、食い潰しの浪人がよ! 仕官して侍になるんだろ? どんな手使っても生き延びてやると思ってないと、お前なんか一発でやられちゃうんだよ。分かってんのか!」


 この「財政的、モラル的にとっくに破綻」し、「終わって」る「世の中」とは、荒唐無稽な弱小藩のことばかりでなく、私たちの住むこの平成日本を指しているのだ。いつか世界にディストピアがやってきてしまうという未来への警句ではない。今この時がまさにディストピアそのものであるという暗黒の現状認識が、この『パンク侍、斬られて候』を作ったチームを衝き動かしている。「お前たちは世界という名の腸のなかの糞でしかない」と突きつけられた一般民衆がかんたんに偏向思想に引っかかり、肛門から解放されて閉塞世界から脱出してやろうと「腹ふり党」の一員となり、裸でうれしそうに腹をふって踊りながら練り歩く。このみっともなく馬鹿げた集団こそ、私たちの自画像だ。


 この映画の真の冒険はしかし、以上の事柄でもない。真の冒険はポップでナンセンスな言語実験にある。夥しい量のナレーションが、登場人物のわずかな動きにも過剰な説明を充満させる。いったいどんな立場からのナレーションなのか、なかなか判然としないまま、時として染谷将太の演じる孫兵衛の心の声をも代弁し、自由間接話法的に「私の意識がとんでいる間に、いったい何が?」などと、気ままに第一人称を明け渡したりする。こんなアクロバティックな言語実験は、日本映画界でめずらしいことだ。また、あらたな固有名詞がナレーションで発せられた瞬間に逐次、野卑なタイポグラフィーが画面の両側を占有する。


 ナレーションおよびタイポグラフィーの滑稽さ、ナンセンスさは、じつのところむしろ冷たいリアリズムから発生している。ザック・スナイダーが『300〈スリーハンドレッド〉』(2007)で実践した、実写の全面的CG化(もはや実写はそこでは消極的なアリバイ以上のものではなくなっている)および過剰なナレーションによるストーリーテリングの無効化、単なるスペック説明としての映画という楽天的なシニシズム。このシニシズムと、『パンク侍、斬られて候』の暗い現状認識のもとでの変態性追及とはまったく正反対のものである。その後はアメコミ映画一陣営の総帥にまで出世したザック・スナイダーに対する痛烈な批判としても『パンク侍、斬られて候』を読み取ることができるのではないか。(荻野洋一)