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山崎賢人が体現する“裏方”としての戦い方 『羊と鋼の森』は音の感動を“体感”できる

2018年06月27日 10:12  リアルサウンド

リアルサウンド

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 鬱蒼と生い茂る森の中を分け入って、外村直樹(山崎賢人)は一歩ずつ、静かな足取りで進んでいく。森に囲まれて育った彼は、ピアノの“いい音”を聴くと森の存在を感じるのである。


 思いがけずある職業に、ふとした瞬間に心惹かれ、それに就いている自分の姿を夢想することがある。名画座通いが日々の楽しみであった筆者にとってその職業とは映写技師であり、例えば『氷点』(1966)や『積木の箱』(1968)といった作品のフィルムを、皆が視線を向けるスクリーンに映し出すところを想ってみたりしたのだった。映画『羊と鋼の森』の主人公・外村の場合は、それが調律師であり、彼はそれを実現させた。


【写真】山崎賢人の『羊と鋼の森』登場シーン


 北海道の大自然を舞台に、1人の調律師の青年の成長が綴られた宮下奈都による同名小説の映画化であるが、原作を手にし、一息に読み終えてしまった身としては、この映画は非常に長く感じてしまう。活字を追いながらその姿を想像していたのに対し、いざ調律師が主人公の物語を映像として目の当たりにすると、まったくの門外漢である筆者が誤解を恐れずに言葉にすれば、やはり「地味だ」と思ってしまったのが正直なところであるのだ。しかしそれは当然のことだろう。彼らが支えるピアニストの存在には、演奏のためにカラダを動かすという身体性を伴った視覚的な感動があり、その奏でられた音には聴覚的な感動がある。一方の調律師には、繊細さが要求される控えめな動きしか見られず、調律するにあたって彼らが発する音は、あくまで“鳴らした音”であり、奏でられたものではないのだ。


 だがこのことから、ひとつの事実を確認することができる。当然のことながら、彼ら調律師が、“支える存在”、“影の存在”であるということである。劇中で調律師たちがみな口にするように、彼らは一様に裏方であるということに自覚的だ。カメラはときに彼らの指先を、シリアスなまなざしを、そして“羊”の毛でつくられたハンマーを、それに弾かれる“鋼”の弦を、じっくりと注意深く捉えていき、それらひとつひとつを私たち観客に注視するように促してくる。吹き出す汗を外村が拭う姿と呼応するように、じんわり汗が浮き上がってきたのは筆者だけだろうか。それらの厳粛さを強いる映像に、私たちはいわば拘束されるのである。


 しかしだからこそ対照的に、カラダを揺らして鍵盤を弾くピアニストたちの演奏は、どれだけ穏やかな曲であっても華やかさを感じることができる。さらに、外村が森の自然を感じることで、木々の緑や、陽光に輝く池の水面、風にそよぐすすきといった映像が重ねられ、演奏シーンは祝祭的な瞬間になっているとさえいえる。“調律”と“演奏”を立て続けに目撃することで、ピアニストたちの姿と奏でる音の感動は、調律師たちの存在があってこそのものなのだという事実がより強調されるのだ。それを単なる事実としてだけでなく、私たちは視覚と聴覚をもって“体感”することができるのである。


 そんな世界に飛び込んだ外村青年。自身がそう口にしているように、彼は音楽的な教養を持っていない。音楽というものに触れてこなかったのだ。彼がその道に進むことを宣言したときに、家族が唖然とするのも無理はないだろうし、それが彼としてはコンプレックスともなっている。だが、信頼のおける先輩・柳伸二(鈴木亮平)は、才能というのは「ものすごく好きだということ」や「諦めない執念」だと口にする。才能の有無とは、第三者が規定するものではないのかもしれない。


 しかし焦燥感に駆られる外村は、着実に一歩ずつ進もうというよりは、しゃかりきになりがちである。そこで、外村を演じる山崎が、ピアノが弾けなくなった顧客の元へと向かって荒々しく走って行こうとするシーンに注目したい。彼は多くの作品で、どちらかと言えばあまり美しいとは言えない、必死さを湛えた走りをこれまでにも見せてきた。近作で挙げるならば、テレビドラマ『陸王』(TBS系)や『トドメの接吻』(日本テレビ系)などでのそれを思い起こす方もいるだろう。いずれも、現状を変えようとする彼のあの必死な姿は、物語をポジティブな方へと駆動させてきた。今作との“ピアノ繋がり”で言えば、スランプに陥った天才ピアニストの高校生を演じた『四月は君の嘘』(2016)でも、現状の自分から脱するべく橋の上から川に飛び込むという場面で、彼はわざわざ例のがむしゃらな走りを一瞬見せている。だが、今作で彼がそんな走りを見せようものなら、旭川の厳しい自然が彼の行く手を阻み(雪面がつるつると滑る)、さらに柳を演じる鈴木に止められる。繊細な動きを求められる調律師である彼は、がむしゃらな振る舞いで物語をポジティブに転換することを許されないのだ。調律師とは徹底的に裏方であり、裏方には裏方の、支える者には支える者の戦い方というものがあるのだろう。


 これまでいくつもの職業に心惹かれては夢想してきた筆者だが、何の巡り合わせでか、いまこの文章をしたためている。正直なところ、外村のように才能や教養というものに憧れることしきりだ。しかし、「ものすごく好きだ」という才能だけは持っているように思える。本作を長く感じたと先に述べたものの、表舞台に立つ者を支える“調律師”という職業に就く人々を見つめながら、普遍的なメッセージを内包した本作の134分という尺は、うまくまとまった映像化と見るべきだろう。筆者だけでなく多くの方が、自身との何かしらの共通項を見いだせるのではないだろうか。


※山崎賢人の「崎」は「たつさき」が正式表記


(折田侑駿)