トップへ

“ジェリコの壁”は壊せるのか? 『あなたには帰る家がある』が描いた男女の本音

2018年06月26日 06:02  リアルサウンド

リアルサウンド

写真

 『あなたには帰る家がある』(TBS系)が最終回を迎えた。全てを終えて、総じてこのドラマは口には出せない男と女の本音合戦であり、そのどうにも越えられない壁とどう向き合うかの物語だったのだと感じた。そしてその男女それぞれの本音を体現したのが、「家」にこだわる2人の男女、中谷美紀演じる佐藤真弓とユースケ・サンタマリア演じる茄子田太郎だった。2人が作った、男と女それぞれの「理想の家」で暮らすことに苦痛を感じ、帰りたくないと思い、つかの間求め合ってしまったそれぞれのパートナーが、玉木宏演じる佐藤秀明と木村多江演じる茄子田綾子だったのだ。


参考:『あなたには帰る家がある』タイトルに込められたメッセージ 中谷美紀たちがたどり着いた“愛”


 ドラマ終盤に「ジェリコの壁」の話が出てきた。フランク・キャプラ監督、クラーク・ゲイブル主演の映画『或る夜の出来事』に登場する、旅先のハプニングで1つの部屋に泊まることになった、会ったばかりの男女が、互いのプライバシーを侵さないように、ベッドとベッドの間に毛布で作った“壁”のことである。彼らは何度もハプニングに見舞われ、何日も夜をともにし、次第に心を通わせる。そして最後の晩、女は壁を越えて男にすがる。しかし、男は彼女を愛していたのにそれを許さず、ちゃんと求婚しようと金策のために出ていったために、女の誤解を生み、2人はすれ違ってしまう。まあ、その後にちゃんとミラクルなハッピーエンドが待っているわけだが、この映画の醍醐味は壁を巡る攻防だろう。


 真弓と秀明がこの「ジェリコの壁」について語るのは2つの意味がある。それは、居酒屋で「この距離がいい」からこのままでと言う真弓に、「何十年待てばいい?」と問いかける秀明との関係性の間にある、なかなか取っ払えそうにない壁のことである。そして、恋人同士だった頃のようにカフェで映画『或る夜の出来事』について語り合う彼らの「プロポーズの時にかっこつけるから」「男心全然わかってない」という会話のように、この映画における「女と男の間の壁」を示している。さらに言えば、彼らが恋人同士だった頃に語り合い、真弓の好きな映画として何度も登場する『ローマの休日』と、『或る夜の出来事』は、どちらも新聞記者と家を飛び出した令嬢の恋物語という構造そのものがよく似た映画だ。だが真弓が共感するのは『ローマの休日』で、秀明が共感するのが『或る夜の出来事』というのも、この「男女の違いあるある」を象徴的に示したものだと言える。


 『或る夜の出来事』は実は最終話に突然出てきたものではない。第10話で綾子の実家に行くために、秀明と太郎が“ロードムービー”を、真弓と綾子が“路線バスの旅”を行う珍道中において、秀明が男2人の道中を『俺たちに明日はない』と男性版『テルマ&ルイーズ』に例えるが、女2人の道中は何の映画にも例えられない。だが、カバンをバスでなくしてしまう真弓と、滑稽なヒッチハイクのやりとりは、間違いなく女同士の『或る夜の出来事』だろう。男と女の壁も簡単には越えられないが、この全く正反対なタイプの女同士の壁も簡単には越えられない。


 また、このドラマは「家」の話だった。第6話で綾子に乗り込まれ、太郎と秀明によって家具が壊され、彼女の家が壊されていくことに愕然とする真弓と、第9話で太郎が、家の壁に拳をぶつける息子・慎吾(萩原利久)を見て「おい、俺の家に何してんだ!」と叫ぶのは同じだ。彼らは何より自分たちの理想の家屋が壊されることを許さない。


 ドラマの内容以上に大きな魅力でもあった、木村多江演じる綾子のホラー的怖さは、物語の途中、彼女がその家屋から飛び出すときに、大きな変化を遂げる。いわゆる伝統的な日本家屋である茄子田家に佇む彼女はゆっくりしっとりと動く湿度高い系真夏の幽霊といった感じだったが、その家屋を飛び出した瞬間、彼女は生命を得たかのように全速力で走り出す。内に秘めていた言葉を声にはしないまでも、「心の声」として表出し始める。密やかに相手が動き出すのを待っていた彼女が、「アナコンダか」と突っ込まれるほど秀明に貪欲になり、真弓への嫌悪感、太郎への不信感を直接ぶつけ出す。


 彼女が“水”のイメージを纏った人物であることは過去の記事(木村多江、幸薄女から魔性の女へ 『あなたには帰る家がある』茄子田綾子役に滲む闇)でも述べたが、真弓への嫉妬心と、思うようにいかない苛立ちを込めて、流しで桃にそのままかぶりつく場面での、あの滴る透明な果汁、スマホに映った真弓の顔写真に降りかかる水滴は、これまでの彼女のイメージとは全く異質な“水”だったと言えよう。そしてそうまでさせたのは、彼女の宿敵である真弓の言葉があったからだ。


 家屋の壁、男女の壁、女同士の壁、彼らはそれらを取っ払うことができたのだろうか。実際にはそれらの壁は取っ払われることなく、茄子田家の家屋から飛び出した綾子は一度は自由を手にしたが、また太郎の元に戻る。太郎の確かな愛を知ったためであり、太郎が心を入れ替え、妻の理想の家屋に作り変えると譲歩したからだ。秀明も、『或る夜の出来事』の男が例え話のままにラッパを吹いて2人の間の壁を崩すラストシーンのように、容易くは真弓との間のジェリコの壁を崩すことはできないだろう。


 茄子田家は壁を壊すのではなく作り変えることを選び、佐藤家は居心地のよい柔らかな壁に隔てられた、家にこだわらないゆるやかな関係を選んだ。


 壁なんて、取っ払わなくていい。男女の壁も、宿敵同士、女同士の壁も、家屋の壁もそう簡単に取っ払えるものではない。そもそも違うのだから。でも、互いを思う気持ちがせめてどちらか一方でも、僅かにでもあるのなら、それで相手が救われることもある。少し譲歩することで変わる世界もある。本音をぶつけることで何かが変わることもある。


 「生きていたらうまくいくことばかりじゃない。そういう時に顔を見たくなる人が“帰る家”」という真弓の言葉はこのドラマの本質だ。「ジェリコの壁」を壊すラッパは、誰一人持っていない。それでいいのかもしれない。(藤原奈緒)