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“涙を誘う感動映画”のイメージを乗り越える 『ワンダー 君は太陽』の壮大な世界

2018年06月24日 10:41  リアルサウンド

リアルサウンド

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 遺伝子の疾患によって、多くの人とは異なる特徴的な顔で生まれてきた男の子、オーガスト(オギー)。両親や姉の献身的な愛情に恵まれて育ち、同年代の子どもたちの好奇の目に触れないように自宅で学習をしていたが、ついに5年生の新学期から学校へと通う決意をする。


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 『スター・ウォーズ』や宇宙が好きで、科学が得意なオギーは、普段はお気に入りの宇宙飛行士用のヘルメットをかぶって外出していた。とうとうそのヘルメットを外し、顔を出して校門の内側へと足を踏み出すのだ。本作『ワンダー 君は太陽』は、孤独やいじめに耐えながらも、周囲のサポートに助けられながら、能力を発揮して道を切り拓き、成長していくオギーの一年間と、心暖まる奇跡の訪れを描く。


 ベストセラーとなった児童書を映画化し、『ルーム』でブレイクした子役、ジェイコブ・トレンブレイがオギーを演じた本作は、その表面的なストーリーの流れを見る限り、“かわいそうな主人公”による、涙を誘う感動映画を予感させ、そのことは一部の観客にとって抵抗を感じてしまうかもしれない。だが実際に本作を見ると、そんなイメージを乗り越える、複雑な構成の語り口と予想外の展開、楽しい雰囲気に驚かされるだろう。そして、さらに思ってもいなかった壮大な世界にも触れさせてくれる。ここでは、そんな『ワンダー 君は太陽』の興味深い点を深く考察していきたい。


 多くの人が経験したり目にしているように、学校のクラスメイトたちによって作られる小さな社会の中では、おとなしい子どもや、スポーツのできない子ども、そして“普通とは違う”と見なされた子どもが、肩身の狭い思いをしたり、いじめに遭うことがある。整形手術の痕の残る特徴的な顔を持ったオギーが、まだ社会的な常識を十分に身につけてはいない小学生の集団のなかに入っていく…。初登校の日、家族は祈るような気持ちでオギーを校門の外から見送る。入学はオギーにとって良い経験だと考える反面、同時にそこでどんなつらい思いをするのかを想像すると、胸が締めつけられる思いだろう。


 案の定、学校から自宅へ帰ってきたオギーは、打ちひしがれて無口になっていた。新学期、何人もの新しい顔ぶれがクラスにやって来たのにも関わらず、彼はクラスメイトの誰からも話しかけられず、食堂では一人孤立して食事をしていたのだ。原作では、“サマー”という女の子が食堂で初日に声をかけてくれるのだが、映画版はそのあたりに脚本上の変更があり、よりリアルで、よりビターな印象が与えられる。母親が元気づけようとすると、悲しむオギーは尋ねる。「僕はどうして醜いの?」「これから、ずっとこうなの?」


 学校生活、職場、その後の人生と、オギーはいつまでもこのような苦しい日々を送らなければならないのだろうか。だがこの後、予想を超える展開が訪れることになる。オギーの物語は、本人の視点から、姉やクラスメイトの視点へと移り変わっていき、複数の章によって多角的に、オギーを中心とする物語が描かれていくのだ。そこで分かるのは、別の角度からのオギーの姿である。


 いつもオギーを励ましている姉は、弟を大事に思う一方で、弟ばかりに両親の関心が向いていることに、少なからず傷ついてもいた。姉はオギーを太陽になぞらえ、家族はそこを中心に回っている惑星みたいなものだと表現する。姉から見た彼は、明るく快活な性格で、いつもみんなを笑わせる才能を持っていた。頭が良くユーモアのセンスにも優れているオギーは、じつは人気者になれる素養があるのである。それを証明するように、はじめは容貌によって敬遠されていたオギーは、次第に周囲の人々を惹きつけ、学校の中でも太陽のような中心的存在になってゆく。当たり前だが彼の容貌は、その人間性とは本質的には関わりのない、あくまで外見上の一つの特徴に過ぎなかったのだ。


 複数の視点で物語を紡いでいくというのは、原作にもあった試みだ。次第に状況が上向いていくオギーの物語は、彼自身の視点のみで描かれていれば、都合が良すぎるという印象を与えるかもしれない。だが章仕立ての作品構造を支える姉たちのような登場人物が、太陽に照らされる惑星のように影の部分を引き継ぐことで、映画全体はリアリティのバランスを保っている。


 そしてまた、太陽のようなオギーがいることで、周囲の人々に光が当たるということも、また確かである。個性の輝きが強い人間もいれば、弱い人間もいる。それらが社会のなかで影響し合うことで、それぞれの物語は有機的なつながりを持ち、変化していく。それらは等しく価値のある、語られるべきものなのだ。


 オギーが偏見やいじめにさらされながらも、つぶれないでいられたのは、まず家族のサポートがあった。ポジティブな考え方を教え、自分への肯定感を持つことを促してきた母親。現実を生きる上での具体的なアドバイスと、ユーモアを忘れない姿を見せてきた父親。そして姉は、同じ現役の学生としての目線から、最も悩みに寄り添ったアドバイスを送る。両親を演じたジュリア・ロバーツやオーウェン・ウィルソンが、主役級の俳優であることからも分かるように、オギーを支える彼らは、彼と同じほどの重みを持つ大事な役なのだ。


 さらに、学校生活の最大の希望となる親友や、心優しく勇気があるクラスメイト、真っ当にいじめ対策を施す校長や教師など、魅力的に描かれている彼らの誰かが欠けても、オギーの精神は押しつぶされていたかもしれない。これが示しているのは、差別や偏見を許さないという、正しい価値観を持った社会がなければ、ある人間の輝きを奪ってしまうことがあるという事実である。


 人種差別、女性差別の支配する社会で夢を追う、アフリカ系アメリカ人女性の活躍を描いた映画『ドリーム』(2016年)では、類まれな能力があるのに、保守的な文化や偏見によって、活躍の場が奪われるという現実が描かれていた。舞台となった60年代当時、アフリカ系や女性の市民が高い地位につくということは国のためにならないと、保守的な人々は考えていた。そのような差別を受ける主人公の頑張り、そして周囲のサポートがあったことで、彼女の研究はソ連との宇宙開発競争の力になり、結果的にそのことが国に貢献することになったのだ。多様性を受け入れ、周囲がそれを支えるということは、より正しい社会を作ることと同時に、共同体全体を助けることにもつながるのである。


 オギーは将来、その能力によって、世界を変える奇跡を起こす特別な子どもなのかもしれない。そうだとしても、たとえそうでないとしても、彼は一人ではないし、彼の周囲の人間も誰かとのつながりを持つことで存在が確立し、互いに成長し続けることができるというのは確かなことだ。


 本作が描いているのは、太陽系を模した、ひとかたまりの人間関係である。それを観客に示すことは、本作が描かなかった他の太陽系が無数に存在することをも暗示していることになる。そして、われわれの現実に広がっているのは、人間たちの複雑な関係性によってかたちづくられる、宇宙的で広大な世界なのかもしれないということを表現しているのだ。


 宇宙で一つの星を助けることが、無数の星に影響を与え、結果的に宇宙全体を救うことになるとしたら…。人に親切にすることは、特別な人間でなくともできる行為のはずである。『ワンダー 君は太陽』は、宇宙的な世界観によって、全ての人に、誰かを支えることができるという価値と、宇宙を変えるかもしれない希望が与えられていることを語りかける映画なのである。(小野寺系)