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映画『恋は雨上がりのように』のトーンを決定づけた、大泉洋の絶妙なバランス

2018年06月21日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 『恋は雨上がりのように』は、女子高生の橘あきらが、バイト先のファミレスの店長で45歳の近藤正己に恋をする話だ。この設定を聞いたとき、都合のよいファンタジーになっていたら嫌だなと思ったし、少しでもそういうところが見えれば、がっかりするだろうなと思っていた。しかし、映画を観ても、そんな描写が見当たらない。


【動画】大泉洋がどこかに飛ばされてしまう様子


 店長は、あきらのことを女子高生という記号で見ているところがないのだ。それを表しているのが、あきらが好意からじっと見つめているのに対し、店長は、それを好意の逆で嫌われているからこその視線の強さだと勘違いしていたというところだろう。


 そんな気の弱さをコミカルに演じている大泉洋がこの映画のトーンを決定していると思う。原作は、店長があきらの気持ちに揺れる部分がウェットに描かれていたが、映画はときに笑え、そして泣けるさわやかな青春映画になっていると感じる。同時に、中年ともいえる男性の、これまでにない魅力を描いていると思う。それは、あきらをひとりの人間として扱っているという点に尽きる。


 普段、店長は、店の従業員たちから臭いと思われているし、すぐにへこへこ謝るしで威厳もなく、女性から好かれるような対象ではないとされている。店長は、この状態をきちんと受け止め、臭いと言われればシャツを着替え、じっと見つめられれば、自分に何か嫌われる要因があるのではないかと、常に自分を疑って過ごしている。


 また、あきらが怪我をしたときには、もちろん病院に連れていくし、バイト中の怪我ということで責任を感じ、家に謝罪に行こうともするのだが、あくまでも店長という枠を超えてこない人であるとも描かれている。


 そんな店長に、なんのきっかけもなく、あきらが好意を寄せているわけではない。あきらが打ち込んでいた陸上競技の夢を絶たれ、ちょうどそのときに入ったファミレスでふと優しくしてくれたのが店長だったからこそ、あきらは店長のことを好きになったのだが、そのときのことを店長は覚えてもいないようにも、実は覚えているのにそれをあえて言っていないようにも見えた。


 もし、覚えていないのだとしたら、店長があきらに見せた優しさは、あきらが女子高生だからというものでもなかったし、あきらが気になったからでもなく、そこに元気のない一人の人間がいたからこその行動であったともとれる。


 こうした下心のない、女性を記号でみない男性に宿る魅力というものこそ、今まではなかなか物語に描かれてこなかったことだと思う。恋の物語を描くとき、「私のことが好きだからとってくれた行動にこそ、ぐっとくる」ということを描くのがこれまでは主流だったと思うのだが、セクハラやパワハラの構造が明らかになってきた現在、その好意は、ひとりよがりで気持ち悪いものにもつながりかねないということを、我々は知っている。


 しかし、この『恋は雨上がりのように』では、「私」が誰であろうと同じ優しさを与える人として店長が描かれているように思えた。だからこそ、店長は最後まで、高校生(女子高生ではない)というきらめく季節を、踏み外してほしくないという一心であきらに対して接するし、そうすることでまた魅力的に思えてしまうキャラクターだった。


 この店長という役を演じるのは非常に難しいことではないかと思う。店長に過度な自信が見え隠れすれば成立しないし、自覚された過度なセクシーさなどがあってもどこか違うと思ってしまうだろう。でも、そんな中にも、あきらが好きになりうる魅力が見えないといけないのだから、俳優のテクニックだけではなかなか醸し出せないものだろう。そこを、大泉洋は絶妙なバランスで演じていたのではないだろうか。


 これまでの映画では、男性主人公が女性と出会い、そこで彼女を助けたことにより、自分自身のヒロイズムを獲得したり、自尊心を取り戻すような物語も多かったと思う。しかし、店長はこの映画の中で、あきらを救ったことでヒロイズムを得ることもないし、自尊心を取り戻し、一歩前に踏み出すときに必要なものとして、あきらの存在の大きさを描いたりもしていない。そんなところを見ても、『恋は雨上がりのように』は、とても新しい形の物語だと思うのだ。


 この映画の終盤、店長はあきらと出会ったことで、自分にも彼女と同じように複雑な思いで過ごし、そしてきらめいていた青春時代があり、そこで置き忘れたものを、自分自身の一歩と、戸次重幸演じる大学の同級生で作家の九条ちひろとの関係性によって取り返す。


 この戸次演じる九条が、長髪に眼鏡、世間には迎合せず、自分なりの考えで生きているというキャラクターで、漫画の見た目そっくりだし、ふたりの場面があることで、彼らの世代にもより身近に感じられる映画になっていたと思う。


 実際にも大学時代からの付き合いで、20年以上の仲である大泉と戸次が、映画の中でも影響しあう2人を描いたことで、より、店長が自分の力で前を見て歩むという性質が強くなったのではないだろうか。


 原作では、それを取り戻す理由として、あきらとの出会いによる比重が大きかったと思うのだが、映画では、店長が自分自身と友情において変化するということをより強く描いていたように思う。だからこそ(彼女をヒロイズムを獲得する材料に使わなかったからこそ)、あきらと店長の希望を残す最後が描けたのだと思うのだ。


(西森路代)