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狂気演技の第一人者ニコラス・ケイジをも魅了 『マッド・ダディ』が踏み込んだ危険なテーマ

2018年06月20日 20:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 常軌を逸する精神状態を演じさせれば、そこはニコラス・ケイジの独壇場となる。クレイジーな言動や行動をハイテンションで繰り返すのは、名優ジャック・ニコルソンも得意としたところだ。ニコラス・ケイジは、血走った目をらんらんと輝かせながら、ここにさらに一種の音楽的ともいえるグルーヴ感をもたらし、狂気の新たな表現を新しく開拓したといえる。まさに狂気演技の第一人者といえる存在である。


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 そんなニコラス・ケイジが、「ここ10年の自分の出演作で最も気に入っている」と発言したのが本作『マッド・ダディ』だ。ここで彼が演じるのは、なんと我が子を殺したいという強い衝動にかられた、文字通り狂った父親である。自分の子どもへの愛情と強い殺意という、相反する感情を同時に表現する役回りだ。


 ニコラス・ケイジは、この問題作“マッド・ダディ”をどう演じたのか。そして本作がこのような奇抜な設定を使って表現しようとする、ニコラス・ケイジをも魅了したテーマが何だったのかを、ここでは深く考察していきたい。


 マイホームを持って、妻や子どもと穏やかな日常を送る。それが、万人がイメージする平凡な幸せだ。ニコラス・ケイジが演じるブレントは、まさにそれを具現化したようなマイホーム・パパである。彼は平和な住宅地の、廊下の壁に家族写真がいくつもかけられているような家で、妻と2人の子どもと暮らしている。


 この平凡な日常は、突然のパニックによって破られる。親が自分の子どもを殺害するという重大事件が、アメリカ国内において、凄まじい規模で頻発したのだ。ある親は、帰宅した我が子を惨殺し、子どもたちの学校には、殺すのを待ちきれない親たちが大挙して押しかける。この奇怪な事件を伝えるメディアは、「テロ計画か? 集団ヒステリーか?」と、突然の事態をつかめず困惑しているようだ。


 そんな前代未聞の集団的な大事件が発生するなか、ブレントの子どもたち、カーリーとジョシュにも魔の手が忍び寄る。帰宅したブレントや母親が、他の親たち同様に、自分たちを殺そうと嬉々として向かってくるのだ。“狂ったママとパパ”対“逃げる子どもたち”。彼らは幸せの象徴であるマイホームのなかで、頭脳と体力の限りを尽くしたバトルを余儀なくされることになる。


 ニコラス・ケイジの演技が圧巻なのは予想通りだ。子どもたちが地下室に逃げ込むと、わめきながらドアをめちゃくちゃに叩き続けて泣きだすシーンは、「さすが」としか言えない素晴らしさである。


 キッチンナイフを突き出し、肉たたきハンマーを振り回しながら近づいてくる“マッド・ママ”を演じる、セルマ・ブレアの迫力もすごい。じつはこのセルマ・ブレア、お騒がせ俳優として世間に知られている。


 ニコラス・ケイジはプライベートでも、公衆の面前でわめいたり、妻に暴力を振るったりなどの問題行動でよく知られているが、セルマ・ブレアもまた、バケーション中の飛行機内で、薬をアルコールと混ぜて飲んだことで突然泣き叫び出し、空港に着くやいなや救急隊員によって運び出されたり、最近もインタビューで口を滑らせ、「キャメロン・ディアス俳優引退」という誤報の火付け役になってしまうなど、パブリック・イメージは決して良いとは言えない。本作は、彼らのそんなイメージを利用している面もある。


 さらに面白いのは、この物語が、ただの超常的な集団パニックとしてのみ描かれてるわけではないというところだ。お騒がせ俳優2人が演じるブレントやケンダルは、じつは心の奥で、平凡な家族の生活を送りながら老いていくということに、不満を抱いていたのだ。


 青春時代、ブレントは半裸の美女を膝にまたがらせながらスポーツカーを乗り回していたし、ケンダルはデザイン会社で働くセンスの良いキャリアウーマンだった。その頃、彼らは自分の人生の主役だった。それが今では、「ママとパパ」として、子どもを養い育てる脇役に甘んじている。本作では、大人たちが子どもを殺そうとするときに、不釣り合いなポップミュージックが流れるが、これはまさに、彼ら大人の“青春のテーマソング”だったのではないだろうか。


 アメリカに限らず、社会では、「家庭を作り、子どもを育てることが最高の幸せ」だという価値観が支配的であるし、多くの映画でも、父親や母親は家庭の幸せを守るために、ときに命を投げ出してまで危機に立ち向かうものだという理念が描かれる。しかし現実の社会では、いつでも親が子どもに対し、模範的で献身的である場合ばかりではない。本作が映し出すのは、そんな一般的な映画やCMとは異なった親の姿である。


 またアメリカ映画には、父親と子どもが2人きりで自宅の前の路上に腰かけて、アイスキャンディーをなめながら会話をするシーンが、ひとつの定番となっている。他の家族がいる食卓ではなく、アイスを食べ終わるまで邪魔の入らない場所で、お互いに腹を割って人生について話すのである。


 本作では、そのシーンが異様なかたちで描かれている。まだ集団パニックが発生する前の平和な頃、息子がアイスを食べながら、父親の車をいたずらしたことを詫びると、ブレントは「父親と息子は似るもんだ。かっこいい車を運転すると、いい女が寄ってくるしな」と、寛容な態度を見せる。そして、「だが、もしまた俺の車を触ったら…殺すからな」と冗談めかして笑う。息子もつられて笑ってしまうが、その瞬間、ブレントの目は本気になって息子をにらみつける。腹を割って話すことで、お互いを理解するのでなく、むしろ心の奥にあるおそろしい感情が飛び出してしまったのだ。


 心のなかで子どもを憎たらしく思ったり、邪魔に思う感情が芽生える瞬間というのは、多かれ少なかれ、多くの人間の心理のなかに存在するはずだ。ブレントやケンダルは、謎の集団的殺意に操られながらも、内心は嬉々として、むしろそれを理由に、解放されたすがすがしさを垣間見せている。本作は、まるで機械の故障のように理性を失い暴力を振るう親の姿を描くことで、人間の心の奥に眠る、秘められた闇の欲望を描いているのだ。


 アメリカを代表する文学者、エドガー・アラン・ポーの作品に『黒猫』という短編がある。自分の飼い猫に愛情を感じている男が、酔っているときにムラムラと暴力衝動が起こり、猫を痛めつけ、目玉をえぐり出し、木に吊すという凶行に及ぶ。やがてその衝動はエスカレートし、彼は自分の妻まで手にかけてしまう。そこから男が社会的に破滅するまでが、黒猫の怨念による怪談話として語られてゆく。


 『黒猫』の物語で真におそろしいのは、黒猫の怨念でも幽霊でもなく、この男が定期的に理性のコントロールを失い、暴力を振るってしまうということである。そのような残虐性というのは一体どこからもたらされるのか。それは人間の本能としてもともと備わったものなのか。だとすれば、その残虐性は読者一人ひとりのなかにも存在していることになる。自分のなかにいる怪物の姿を意識することが、『黒猫』の本当の恐怖なのだ。


 ニコラス・ケイジは前述したように、プライベートで様々な問題を起こしている。そんな彼の行動は、とても擁護できないところが多いが、彼自身が自分のなかの怪物を理性で押さえつけようと、日々の生活の中で葛藤していただろうことは想像に難くない。彼が本作を気に入ったのは、親たちのむき出しの感情という危険なところに踏み込み、多くの映画が目を背けてきたテーマを描いたからではないだろうか。


 アメリカも日本も、親による子どもの虐待問題が絶えない。その事実は、映画やCMが描く、模範的で幸せな家族の姿とは、あまりにも隔絶していると感じる。虐待はしないまでも、このような理想のモデルに対して、自分はそのようにはなれないと悩み、コンプレックスを与えられる親たちは少なくないのではないだろうか。だが、実際には多くの人間が、心のなかに負の感情を隠し持っており、それ自体はむしろ自然なことだといえよう。問題は、人間一人ひとりがそれをコントロールする術(すべ)を学ぶことである。そのためには、心のなかの怪物の存在を否定するのでなく、ときに見つめ、対峙することが必要であると思える。『マッド・ダディ』は、そのような問題を意識させる、数少ない映画である。(小野寺系)