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“内”にではなく“外”に開かれた希望ーー『空気人形』に通ずる『万引き家族』の空虚や孤独の可能性

2018年06月18日 12:52  リアルサウンド

リアルサウンド

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 父と思われる中年男と、息子と思われる少年がスーパーで仲睦まじそうに買い物をしている。何の変哲もない家族の日常を切り取ったようなこのコミカルな場面が、実は万引きをしているところだと知らされて始まるこの物語は、次第に彼ら家族の秘密を暴き出していく。


参考:特大ヒット『万引き家族』 その「前例のなさ」を紐解く


 一種のブームと化しているとも思われる「疑似家族」を描いた映画の中に、ゲイの男性カップルを描いた『チョコレートドーナツ』(2012)がある。同作では、彼らがダウン症の少年を養子として引き取り、家族を形成しようとする。しかし最終的に、少年はその母親に奪われてしまう。「あんたらが気にも留めない人生だ」と、彼らが憤って発する言葉通り、セクシュアルマイノリティと障害児という「弱者」で構成される共同体が紡ぐ「小さな物語」は、そこで交わされる心の交流や事情などを気にも留められないあまり、いとも簡単に社会や司法といった共同体による「大きな物語」に虐げられてしまう。


 『誰も知らない』(2004)を代表作として、何度も家族を主題として描いてきた是枝裕和監督だが、本作は家族の姿ではなく人形の姿を描いた『空気人形』(2009)を真っ先に思い起こさせた。『空気人形』では、ラブドールののぞみ(ペ・ドゥナ)が吉野弘の一編の詩を朗読するが、そんな吉野弘の言葉に次のようなものがある。


“他人の行為を軽々しく批判せぬことです。自分の好悪の感情で、人を批判せぬことです。善悪のいずれか一方に、その人を押し込めないことです。”


 第三者的な視点からではなく、裁く側である視点にカメラを置き、彼らと真っ向から対峙するように撮られた中盤の場面では、私たちの道徳観や倫理観といったものに強い揺さぶりをかけてくる。万引き、誘拐、死体遺棄……わかりやすい犯罪をかいつまんでそれだけで彼らを断罪するのはあまりにもたやすい。しかしそこで一旦立ち止まり、脈々と流れる文脈を想像することができるか、ということを問いかけてくる。「Invisible people=見えない人々」は、世間に置き去りにされ、あるいは見ないふりをされている万引き家族の彼らのような人々のことでもあるが、と同時に、彼らを罪に至らせてしまった、なかなか立ち現れてこない当人以外の人々のことをも指す言葉ではないだろうか。それは、劇中で信代(安藤サクラ)が「捨てたんじゃない。拾ったんです。誰かが捨てたのを拾ったんです」と語った言葉の中における、その「誰か」が指す人々のことである。


 『空気人形』における、その空虚さ故に空気を吹き込まれ、生命を与えられた人形の姿と、『万引き家族』において誰かに捨てられ、そして拾われて家族を与えられた彼らの姿はどこか似ている。空虚や孤独は、時に他者へと続く可能性にもなり得るのだ。


 そしてまた、『空気人形』と『万引き家族』のラストシーンは、それぞれに登場する2人の女性を通して共鳴し合う。『空気人形』は、部屋の中で過食を繰り返していた摂食障害の女性・美希(星野真里)が窓から外を眺め、棄てられた人形の姿を見ながら「綺麗」と呟き、一方、『万引き家族』では、凛がアパートから外を眺める描写で幕が閉じられる。凛の最後の一瞬の表情は、小さく息を吸い込んでいるようにも見える。凛の視線の先は描かれないが、だからこそその小さく吸い込んだ息を吐き出す先を想像することができる。未来に想いを馳せることができる。彼女たちの視線は、一様に「内」ではなく「外」に向けられる。それは彼の映画において、希望は「内」にではなく、「外」に開かれていることの表れである。


 家族は永遠の共同体ではない。老人は天寿を全うし、子供は大人になり、家を出て行く。人生のある期間を一つ屋根の下、ともに身を寄せ合って暮らす。そこには血が繋がっている、いないに関係なく、確かに共有した時間がある。初枝(樹木希林)が、家族団欒の海辺でおそらく彼らに向かって「ありがとう」と投げかけたように、その刹那なる時間に感謝し、かけがえのない思い出として共有することができる。


 かりそめの絆を持ち寄る家族が、縁側から音だけの花火を見上げる場面がある。どこかで美しく花開くその煌めきを、彼らがいる場所からは決して捉えることができない。豊かさの権化としての高層マンションが、貧困を体現する彼らの住む木造の戸建てに立ちはだかっている。その高層マンションに住む人々からも、やはり彼らの存在は目に入らないだろう。本作で描かれる「万引き家族」とは、音だけが無情に鳴り響きながら散っていく、実像のない花火そのもののことだったのかもしれない。(児玉美月)