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『モンテ・クリスト伯』が描いた人間の本質 作り手たちのエネルギーが詰まった最終回を振り返る

2018年06月17日 06:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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『モンテ・クリスト伯 ―華麗なる復讐―』(フジテレビ系)が、ついに完結した。なぜこれほど多くの中毒者を生み出したのか。俳優陣の気迫みなぎる演技、グイグイと引き込んでいく脚本、そして想像を超えてくる過激な演出……と、作り手の並々ならぬエネルギーに惹かれたのはもちろんだが、この物語に人間が逃れることのできない“異なる正義の闘い”を感じたからかもしれない。原作が発表されたのは、約170年も前。時代や背景が変わっても、人の本質は変わらないということだろうか。「いかに生きるかを学ぶには全生涯を要す」「人間とは自分の運命を支配する自由な者のことである」。セネカやマルクスが唱えた先人の言葉が、獄中の暖(ディーン・フジオカ)を奮い立たせたように、このドラマには人生を切り開くために必要なものを見せてくれた。


 「昔はみんな幸せだったのに……」。柴門暖ことモンテ・クリスト・真海がポツリとつぶやいたこの言葉は、彼の鈍感さをよく表していた。“みんな幸せ”というのは、欲しいものを手にした者だけに見える幻の景色だ。自分が“持っている”のは、それを“持っていない”人がいることの裏返し。勝者がいれば、必ず敗者が生まれる。人が幸せになりたいという願いはすべて正義だ。だが、全員がそれを手に入れることなんてできない。争いは、互いの正義を貫こうとした結果だ。クーデターを起こしたのは正義か、悪か。理想の社会を作ろうと集まった人たちは義勇兵か、テロリストか。勝てば官軍。私たちが学んできた歴史も、欲しいものを手にした者の視点でしか語られない。


 「みんな忘れようとしたんだよ」。愛を手に入れたかった南条幸男(大倉忠義)、ビジネスで成功したかった神楽清(新井浩文)、思い描いた家族とキャリアを作りたかった入間公平(高橋克典)は、自分たちも必死だったのだと訴える。暖の視点で描かれた本作だからこそ、“よくもそんなことを……”と思うが、これが彼らを主人公にしたドラマだったとしたら? 怪しげな投資家が突然現れ、もう思い出したくもない過去を掘り返していったら? 目の前で母親が自殺し、父親が壊れる様子を目の当たりにした入間公平の息子・瑛人は、愛梨(桜井ユキ)と同じく、家族がめちゃくちゃにされたと思ったことだろう。


 絶対的な正義なんてものはないのだ。“人として”という良心も、時代や社会の変化によって変わっていく。正義の名のもとに動くとき、人間は驚くほど残酷になることを歴史が教えてくれている。だが、平穏な日常を過ごしている私たちにとっては、少し遠くなっている感覚かもしれない。だからこそ、本作では目をそむけたくなるような、むごいシーンが続いたのだろう。殴られる痛み、何日も風呂に入らない臭い、石の床で寝る硬さや冷たさ……正直今の日本を生きる私たちには縁遠いものばかりだ。それほど、私たちは平和を“持っている”側にいることを忘れてはならない。第1話で「満天の星よりも都会のネオンがいい」と話したすみれ(山本美月)と同様に、幸せゆえに鈍感になってしまうことがある。そこを狙って、奪いにくる人もいる。私たちが生きているのは、そういう世界なのだ。


 「人間は変わりますから」(幸男)、「変わんねぇよ、根っこは」(神楽)という第4話のやりとりは、決して答えの出ない問いだ。暖が真海になったように、人は変わることができる。だが、どこまでも自分の幸せを求めるという本質的には人は変わらないのかもしれない。自分の正義が砕かれても、死んだほうがマシだと思える悲しみに見舞われても、人生は簡単には終わらない。ならば、どんな気持ちで復讐心と立ち向かえばいいのか。「でも俺決めたんです。忘れることはできないけど、もうこれ以上縛られるのはやめようって。引きずってたら一生前に進めないですから」。次世代を生きる守尾信一朗(高杉真宙)のまっすぐな言葉が胸に突き刺さった。“光の導く方へ”とは、そんな希望の言葉を指しているのかもしれない。あなたの正義は、何か。それは誰かの影を作っていないか。それを振り返ったとき、本作のどんなトラウマシーンよりも、背筋が寒くなるかもしれない。(佐藤結衣)