GP Car Story最新刊Vol.24『ベネトンB194』の発売を記念して、同車のデザイナーであるロリー・バーンが、過去にGP Car Storyで語った自身のマシン開発秘話を特別公開!
第二弾は、Vol.19で特集した『トールマンTG184』。セナのF1デビューイヤーの愛機であり、その後の“バーン・エアロ”に繋がる野心作だった。
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トールマンTG184を語る時、多くのF1ファンの記憶に真っ先に思い浮かぶのが、レース中の赤旗でアイルトン・セナのデビューイヤー初優勝を阻まれたモナコGPであろう。そして、そのレースだけがその後のセナの伝説とともにひとり歩きを始め、TG184というマシンは人々の記憶からフェードアウトしてしまった。
今までも、そしてこれからも、TG184&トールマン・チームの存在は、人々の記憶の隅に埋もれ、脚光を浴びることはないはずである。
しかし、セナの最初の輝きはこのトールマンとTG184あってこそ、という事実をいったいどれだけの人が理解しているだろうか。グランプリ史では影の薄いトールマンが作り出したものが、実は現在のF1に脈々と息づいているのだ。
TG184も含め、トールマンがF1に参戦した5年間の歴史で、そのすべてのマシンを生み出したデザイナーがロリー・バーンである。バーンはその後、ミハエル・シューマッハーの5連覇をはじめ、7度もチャンピオンマシン(ドライバーズ)を生み出したカリスマデザイナーだが、その彼に自身が設計したTG184とトールマン・チームについて、真実を聞く機会を得た。
■ミシュランタイヤありきで開発
トールマンは1984年シーズンの開幕4戦をTG183Bで戦い、セナは第2戦南アフリカGPで6位入賞を記録している。TG184の登場は第5戦フランスGPまで待たなければならなかったが、果たしてそれは単にマシン開発の遅れが原因だったのだろうか。
「TG183Bは82年シーズン終盤に投入したTG183の発展型で、ピレリタイヤに特化したマシンだった。しかし、83年の時点で我々はミシュランへのタイヤ変更を決めており、すでにTG184の開発も進めていたんだ」
「したがって、TG184は最初からミシュラン装着を前提に開発されたマシンだったので、彼らとの契約が成立しない限り、TG184をレースで走らせることはできなかった」
このバーンの発言には驚いた。一般的には、シーズン途中にタイヤメーカーを変えただけだと報じられていたが、TG184は最初からミシュランタイヤありきで開発されたマシンだったからだ。両メーカーのタイヤは特性がまったく違っていて、当時はミシュランがピレリを性能面で大きく引き離していた。
「TG184がTG183Bより確実に速いことは分かっていたが、何戦目で登場させられるかはピレリとの交渉次第で、それがいつになるのかは私には分からなかった」と、バーンはその交渉が難航したことを臭わせる。
事実、ピレリと別離するには、第4戦サンマリノGPまで待たなければならなかったのだ。では、ミシュランへの移行はスムーズに行なわれたのだろうか。
「ミシュランの性能にまったく問題はなかった。当時はタイヤだけで、1秒以上の差があったからね。むしろミシュラン陣営はセナを加えたがっていたし、トールマン自体にも積極的な興味を示してくれていた」
「一方、当時のピレリは最後まで自分たちのタイヤとミシュランとの性能差を認めず、その原因はマシンにあると考えていて、我々が望む開発をしてくれなかったんだ」
コンパウンド等の化学にも詳しく、F2時代からピレリタイヤの開発に関わり、“タイヤのスペシャリスト”と呼ばれていたバーンをもってしても、当時のピレリのエンジニアたちの開発思考を変えられなかったようだ。
バーンにとっては、両社の性能差よりも開発への考え方を共有してもらえなかったことの方が問題として大きく、ピレリとの別離に発展したのだという。
ピレリと袂を分かち、ミシュランに特化したマシンとして登場したTG184。TG183Bとの共通点はモノコック前半部分とフロントサスペンションだけで、空力を中心にまったく違うマシンとして生まれ変わっている。「空力の改良こそが、開発のポイントだった」とバーンは説明する。
「現在のマシンは、空力が性能の90%近くを占めている。もちろん、当時そこまで追求するのは難しかったが、それでもTG183で学んだあらゆることをTG184に投入した。さらに言えば、トールマンの初代F1マシンTG181から3年かけて経験してきたすべてを、TG184の開発に活かしたつもりだ」
トールマンは同時期に、当時クランフィールドの空軍敷地内にウインドトンネル(風洞施設)を建設している。今でこそF1チームが当たり前のように保持するが、当時はF1チームの多くがロンドンのインペリアルカレッジやサウザンプトン大学の古い風洞施設をレンタルしていたのである。
「風洞施設の重要性は、もはや語るまでもない。当時、我々は独自の風洞を持ったことで、多くの実験をこなせたんだ。F1のマシン開発には必要不可欠なツールであり、現在はその開発のほとんどを占めていると言ってもいいだろう」とバーンは強調する。
■ターボエンジンのオーバーヒートに苦しむ
バーンは自身がトールマンで初めて手がけたマシン、TG181についても解説してくれた。
「ウイングカーの時代にF1参戦を決めて、最初に設計したのがTG181だ。80年のヨーロッパF2チャンピオンを獲得した我々のF2マシン、TG280がベースになっていた。ブライアン・ハートが開発したハート415Tエンジンを搭載したマシンだった」
「しかし当時の我々はもちろん、ハートや一緒にF1に関わり始めたピレリタイヤの開発もまだ手探り状態で、他チームとの差はまったく把握できていなかった。したがって、我々はミスを犯しながら多くのことを学んできた。F1新入生が最初から上級生と対等に戦えるとは考えていなかったけれど、本音を言えば予想以上に難しかったのは事実だ」
バーンは、当時のトールマンがF1挑戦を少し甘く見ていたことを明かす。
「最初に苦しんだのは、オーバーヒート。ターボエンジンの経験がなかったため、ハートもベンチテストでの結果をメインに熱量を想定していたが、この数値が現実的ではなかったことが大きな問題だった。なおかつ、タービンから発生する熱が尋常ではないことも、実際に走ってみてから初めて判明したんだ」
最初に直面した大きな課題は、ターボエンジンのあらゆる部分においてのオーバーヒート対策。近年を振り返ると、2014年に新パワーユニットが投入された時も、初期段階で各メーカーがオーバーヒートの問題に対処していたことを思い出す。もちろん、80年代のそれとはまったく違う種類の問題なのだが、どこか共通点を感じてしまう。
「TG181はエンジンマウントが巨大なツインチューブモノコック型をしていたが、それが大きな容積を取っていて、冷却系の大型化を阻んでいた。少しでも冷却するために、ターボユニットをエンジンのカムカバーの上に搭載して空気流にさらして、さらに冷やそうと試みたがそれでも絶対的に足りず、散々な目に遭った。でも、この反省がTG183に活かされた」
確かにTG183は、まったく違うマシンに生まれ変わって登場した。F2ベースのアルミモノコックは、当時先進のカーボン、アルミハニカム、ケブラーによるコンポジットに変更されている。トールマンはマクラーレン、ロータスに次いで、3番目にコンポジットモノコックを採用したチームとなった。
「カーボンコンポジットはアルミモノコックと違って高いねじれ剛性を持ち、巨大なパワーと大きなトルクにも耐えられるし、複雑な形状の成形も可能だ。軽く強くコンパクトに作れ、サイドポンツーン内の空間が広がることで補機類の搭載容積も増える」
「その結果、インタークーラーやラジエター類などの熱交換の性能を大きく向上させ、ハート・エンジンの性能アップにもつながった」
のちにバーンはコンポジットの車体設計の第一人者と呼ばれるようになるが、TG183はその初挑戦マシンだったのだ。冷却、そして高馬力・高トルクのターボエンジンへの必然性から生まれたカーボンコンポジットモノコックだが、そこには冷却に関するサイドポンツーン内のフローダイナミクス、インターナルエアロも重要な要素であった。
「エアロダイナミクスの重要性はF2時代から強く感じていた。幸運なことに、私は趣味で昔から模型グライダーの設計をやっていて南アフリカの競技でチャンピオンも獲得しているが、これがレーシングマシンのエアロダイナミクスを考えるうえで大きく役立った」と、自身の趣味とF1マシンのデザインとのつながりを説明する。これがバーン・エアロの第一歩となったわけだ。
「フラットボトム化したTG183Bでは、ハート・ターボの大パワーをピレリタイヤを介していかに路面に伝えるのかを徹底して考えた。それがフロントウイングを止めて、巨大なスポーツカーノーズを選んだ理由だ。いわゆるベンチュリーフロアだね。
このウイングでフロントに巨大なダウンフォースを発生させており、その効果は絶大であったが、リヤのダウンフォースもうまくバランスさせなければならず、巨大なミッドウイングと通常のリヤウイングの2本立てを考案した。
実際、高速ではミッドウイング、中低速コーナーではリヤウイングでダウンフォースを稼いでおり、このアイデアは成功したのだが、2枚のウイングのドラッグは隠しようがなく、大きな問題にもなっていた」
特徴的なTG183Bのエアロダイナミクスはこうして生まれたわけだ。同車の外形はF1史上、この1台を除いて見つけることができない独特なスタイルだが、「TG183Bには多くの短所があり、それを解決したのがTG184だ」とバーンは語る。
「TG183Bの問題点は、大きなダウンフォースを得たものの、フロントはグラウンドエフェクトが強すぎ、ピッチングによってダウンフォースが変化しやすかったことだ。ドライビングがとても難しくなっていた」
「また、リヤのダウンフォースもウイングが受け持っていたためにドラッグが大きく、スピードや燃費に悪影響を及ぼした。そして、フラットボトムとディフューザーをショートフロアで設定したことも、大きな問題のひとつだった」
この反省を活かし、TG184ではロングフロアディフューザーを採用したのだという。
「フロアディフューザーからのダウンフォースを増加させることに成功し、その効率向上は著しかった。それにサイドポンツーンの大型化は、パワーアップしたハート・ターボの要求する熱交換性能を満足させるインタークーラーの大型化と冷却能力の向上につながったんだ」
「フロントのピッチングセンシティビティ(過敏な上下動反応)は、ベンチュリーフロアノーズを大きくシングルウイング化して対処した。これは一見、巨大なフロントウイングだが、ベンチュリー効果でのグラウンドエフェクトを狙ったものだ」
「実際、エンドプレートに施したアジャスタブル機能は単にウイングの角度用ではなく、グラウンドエフェクトのためのスカートの役割を持たせていたのだ。このウイングの搭載でダウンフォース自体は若干減少したが、ポーパシング等の神経質な反応は緩和された。セナはこのマシンに乗った途端、1秒以上も速く走ったからね」
「それはミシュランタイヤの性能だけではなく、TG184の素性も良かった証拠だ。ただ、ミシュランが我々に供給できたタイヤは、マクラーレンに供給している開発タイヤではなく、コントロールタイヤのみだった。両スペックの差は、0.6秒くらいに値する大きなものだったんだ」
■マクラーレンによる妨害
なぜ、ミシュランはトールマンにコントロールタイヤしか供給しなかったのだろうか。
「もちろん、当時トップチームであったマクラーレンが我々への開発タイヤの供給を拒んだからだ。ミシュランは供給してくれようとしていたんだけどね。TG184とセナは、そのコントロールタイヤでマクラーレンを追い回してしまったのだから」と、ロリーは当時を思い出しながら笑みを浮かべる。では、優勝目前までいった雨のモナコGPは?
「ミシュランのウエットタイヤにはコントロールタイヤの設定がなく、他の供給チームと同じタイヤしかなかったんだ。当初、マクラーレンはこのタイヤを我々に供給することを強く拒んだのだが、最後の最後でミシュランが我々に他チームと同じウエットタイヤを供給してくれた」
「我々にはセットアップの時間がほとんど残されていなかったが、それでもセナがレース半ばでマクラーレンのアラン・プロストをかわしてトップに躍り出るところだったんだ。赤旗さえなければね……」
マクラーレンの政治的保守性をやんわりと批判したバーンだが、ハートに関しては賞賛を惜しまなかった。
「彼らは良い仕事をしたと思う。81年のデビュー当時からパワーはあったが、耐久・信頼性をなかなか確保できなかった。だが、ブライアンは開発を頑張り、F1史に残るモノブロック(シリンダーヘッドとシリンダーブロックが一体化しているエンジン)を作り上げた」
「また、現在では市販車でも当たり前の電子制御点火をF1で初めて採用していたし、開発を進めるごとに確実に性能を上げていた。特に、83年後半にホルセット製ターボユニットを開発してからの性能向上は目覚ましかった」
「それまでは既製のターボユニットだったが、ホルセットがハート用オリジナルを製作し、大成功を収めたのだ。プライベートエンジンが当時のワークスと渡り合っていたことを考えると、ブライアンの才能には頭が下がる」
バーンの話を聞く限り、ハート・ターボは世の中で言われているように非力ではなかったのだ。翌年の契約問題に関するペナルティで、イタリアGPに参戦できなかったセナの代役として出走したステファン・ヨハンソンが、TG184初ドライブながら4位入賞を記録したことからも、マシンに速さがあったことは明らかだろう。
84年限りで袂を分かつことになるセナだが、バーンは「間違いなくアイルトンは、才能に溢れた素晴らしいドライバーだった」と振り返る。
「彼はトールマンに加入して最初のシルバーストン・テストでTG183Bをドライブし、それまでのトールマン・ドライバーのベストタイムをいきなり更新してしまったのだ。あれほどドライビングが難しかったマシンなのに、その速さに驚かされた。もちろん、その後に彼の残した成績を考えると当たり前のことなんだけどね」
「ただ、彼がその才能を発揮できたのは、TG184とハート・ターボの貢献があってこそのものだと信じている。アイルトンは翌年ロータスへ移籍したが、TG184はそのロータスのマシンとも互角に戦えるマシンになっていたはずだ」
「TG184で生み出したロングフロアディフューザーによるエアロコンセプトは、その後の私のコンセプトを支える核となってきたものだよ」
バーンはTG184の出来に胸を張り、自身のデザイン史の中で重要な出発点となったマシンについて、懐かしそうに語った。
それでは、F1史上に残るカリスマデザイナーのバーンにライバルはいるのだろうか。普通に考えると、それはエイドリアン・ニューウェイしかいないのだが、バーンは「エイドリアンをライバルとして考えたことはない。F1史上最高のエンジニアであり、私は彼をすごく尊敬している」
「エイドリアンは巷で言われているような空力だけのエンジニアではなく、エンジニアリングすべてに造詣が深い。エンジニアとして、人格者として憧れる存在だよ」と、驚くべき意見を聞かせてくれた。
面白いことにこれは、ニューウェイのバーンに対する考えとよく似ているのだ。F1デザイン史を二分してきたカリスマデザイナーはお互いの才能を認め、尊重してきたのだろう。
現代社会では滅多に見られないライバル同士の尊敬感……彼らの生み出してきたマシン群がF1で常に高度なチャンピオン争いを繰り広げてきたのは、このような感情が影響していると考えるのは筆者だけだろうか。
トールマンTG184を介して知ったロリー・バーンの出発点、そしてカリスマの系譜──やはりF1は奥が深い。
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