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『バーフバリ 王の凱旋』完全版と国際版は何が違う? “ゴールデン・スパイス映画”のすごさを分析

2018年06月13日 12:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 2017年の末、日本で初めて、インド映画『バーフバリ 王の凱旋』が封切られた。娯楽映画の王道中の王道、“天道”を走る火の玉のようなインパクトと激烈な面白さは、大きな話題を呼んだ。口コミやSNSによって、その熱気は広がりを見せ、「何をしていてもバーフバリのことばかり考えてしまう」という、日常生活に支障をきたすほどの熱狂的ファンを数多く生み出し、異例のロングラン・ヒットを達成することになったのだ。


参考:『バーフバリ』大ヒットの背景は? 配給会社ツイン・宣伝プロデューサーに聞く


 ただ、公開当初はそれほど反応が良くなかったのも確かだ。私自身、「とんでもない作品だった!」と、周囲に吹聴したものの、観る前から「ただ愉快なだけの作品なのだろう」と、たかをくくったような反応が珍しくなかった。それは、インド映画に対する偏見や先入観があったためであろう。


 だが状況は変わった。けれんたっぷりのダイナミックな演出、勧善懲悪的な王道物語への回帰、そして勇者バーフバリや国母シヴァガミら、登場人物の圧倒的魅力など様々な要素が、従来「面白い」とされてきた基準をはるかに超えている本作は、いまでは映画ファンの間で無視できない存在となっている。


 さて、このタイミングで新たに日本で公開が始まったのが、『バーフバリ 王の凱旋<完全版>』だ。じつは日本でこれまで上映されていた、141分の『バーフバリ 王の凱旋』は、インドで上映されていたオリジナルよりも、26分短く編集された「国際版」だった。なので熱狂的ファンの間では、167分の「完全版」の方を劇場で観ることが悲願となっていた。そして、ついにこの度、その望みが叶うことになったのだ。


 前置きが長くなったが、ここでは、そんな本作『バーフバリ 王の凱旋<完全版>』が、国際版とどう違ったのかを検証し、またそれを踏まえたうえで、あらためて『バーフバリ』のすごさを深く分析していきたい。ちなみに私は、映画会社から宣伝を頼まれているわけでも何でもなく、ただ自分の心のままに、公共の利益と映画における芸術や娯楽の未来のために、このテキストを書いているということを、あらかじめ理解してほしい。


 今回、完全版を見て驚いたのは、数秒、数十秒くらいしかない、見たことのない短いカットが、劇中に無数に散りばめられていたということだ。つまり、いままで見ていた国際版では、数多くの場面が細かく秒単位でシビアに短縮されていたのである。


 『バーフバリ 王の凱旋』は、計算が行き届いたクレバーさを感じる作品という印象だったが、各シーンで登場人物の感情の流れに、若干のぎこちなさを感じる部分があったことは事実だった。しかしそれは、わざわざ言うほどのことはない、多くの映画作品に存在する程度の粗さである。しかし完全版では、樽で10年寝かせたウィスキーに対し、20年寝かせたウィスキーが、芳醇でまろみを帯びるように、全体がスムーズで見やすい作品となっていた。国際版に感じた幾分の粗さは、プロセスを端折っているために生まれていたものだったのだ。


 最も目立つのは、主人公バーフバリに恋をする、クンタラ王国の王女デーヴァセーナが舞い歌う『かわいいクリシュナ神よ』のシーンである。育ち始めた恋心を印象づけるシーンが存在することで、この後に二人が愛情を交わすシーンへの説得力とカタルシスが増している。


 「クリシュナ」とは、ヒンドゥー教において、ヴィシュヌ神が化身した人間であるとされる。その魅力によって数多くの妻をめとり、牛飼いの女を最も愛したとされ、後に神に列せられたという稀代のプレイボーイだ。デーヴァセーナがクリシュナを称える姿を通すことで、バーフバリに惹かれていく心理と、運命的な神話性が強調される。これは、ヒンドゥー教の知識が無ければ伝わりづらく、その意味では比較的、国際版からカットしやすいシーンだったのかもしれない。


 奴隷剣士カッタッパが、バーフバリに恋愛指南をしようとするも食い気を出してしまうシーンや、老いた彼に暗殺命令が再び下されるシーン、臆病者ながら憎めない人物クマラ・ヴァルマをさらに愛せるドジなシーンなどなど、完全版に残されているオリジナルの各部分は、けして作品の“ぜい肉”などではなく、作品を効果的に盛り上げ、展開や登場人物の心情に納得することができる要素となっている。


 しかし、今回の完全版公開によって、短縮された国際版の存在価値が全く無くなってしまったというわけでもない。かつてジャン=リュック・ゴダール監督の『勝手にしやがれ』(1959年)が、プロデューサーの意向によって上映時間を減らさねばならないという事情から、監督が破壊的ともいえる大胆な編集を行ったことによって、現実ではあり得ない時間的処理や、シーンがガクンと転換してしまう「ジャンプカット」などの革命的演出が生まれたように、テンポが早く荒削りなぶん、本作の国際版にはある種の勢いが存在し、そのことが作品の熱気を上げる役割を果たしていたようにも思えるのだ。


 だが本作の娯楽的な構造が、“我慢”と“解放”との関係から出来上がっている点にも注目してほしい。クンタラ王国で身分を隠し、クマラたちからバカにされていたバーフバリが、王国が危機に陥ると鬼神のような勢いで活躍するシーンで高揚感を生んだのは、この構造あってこそである。そして、悪の王バラーラデーヴァの権謀術数や残虐非道な仕打ちがじっくりと時間をかけて描かれるほど、バーフバリとの一騎打ちに爽快感が発生するのである。つまり、数多くのシーンが少しずつ長い完全版は、これら我慢の時間や、フラストレーションが発散される時間も長いため、作劇上の満足感が大きくなっているのだ。


 『バーフバリ 王の凱旋』のアクションが、ただ面白いだけではなく、手に汗握るようなスリルと、脳天がしびれるような快感が与えられるというのは、このようなダイナミックな劇的構造と、同時にスケール感をともなっていたからである。その巧みさからは、監督本人も述べているように、日本の黒澤明監督による娯楽演出からの影響が少なくないように感じられる。


 また一方で、本作における宮廷での陰謀劇が描かれる部分からは、ロシアの巨匠セルゲイ・エイゼンシュテイン監督による『イワン雷帝』シリーズを思い起こさせる。エイゼンシュテイン監督は、構成主義や表現主義という芸術理論を背景に、“モンタージュ”をはじめとする映画の演出手法をいくつも発明しており、登場人物の感情や哲学的意味などを画面上の絵作りに反映させるという表現を極めた映画作家である。


 じつは黒澤監督は、エイゼンシュテイン監督の、このように俳優たちをも画面構成の一部としてとらえようとする表現を「俳優を物体みたいに考えている」と批判したことがあった。たしかにリアルな感情表現によって観客に感情移入を促すということを目指すという観点においては、その演出は大衆的な娯楽作には硬質的すぎる手法なのかもしれない。


 本作は、そんな相反する思想を無視するかのように、これらの表現を同時に行っている。表現主義的であり、俳優の演技を主体とする、エイゼンシュテイン演出と黒澤演出を合体させてしまったのだ。だから本作は、映画史の異なる事象を統合してしまうような感動が存在する。


 それだけにとどまらず、D・W・グリフィス監督の『イントレランス』(1916年)、ウィリアム・ワイラー監督の『ベン・ハー』(1959年)、チャン・イーモウ監督の『HERO』(2003年)、ザック・スナイダー監督の『300 <スリーハンドレッド>』(2006年)など、古今東西の作品の要素を、「面白い」ということで節操なくとり入れ、さらにインドの寓話や哲学によって、カレーのスパイスのように混ぜ込んだのが本作なのだ。だからこそ映画ファンのみならず、多くの観客が本作の娯楽の渦に飲み込まれてしまう。


 そして、“真の王”バーフバリが、あり得ないほどに神々しく美しく、観客の心を打つのは、その背景にヒンドゥー教や叙事詩『マハーバーラタ』の寓話性があることはもちろん、そこにさらに現代的な理想のヒーロー像が投影されているからだ。人々の上に立ち、政治を行うような権力の座につくのは、傑出した能力を持っている上に、一般市民の視点に立って、嘘をつかず私利私欲に溺れず、セクハラを絶対に許さず、勇気と覚悟をもって公共の利益に献身することのできる人物でなければならないという、真っ当な価値観をわれわれに思い出させてくれる。


 多くの魅力を備えた“ゴールデン・スパイス映画”『バーフバリ 王の凱旋』。国際版をすでに鑑賞している観客も、そしてまだ『バーフバリ』の洗礼を浴びてないという人も、完全版をぜひ大画面で味わってほしいと、心から思う。


 ここで朗報をお知らせする。S・S・ラージャマウリ監督によると、国母シヴァガミの人生を描くスピンオフ小説『ザ・ライズ・オブ・シヴァガミ』の映像化が予定されているそうである。われわれを魅了した『バーフバリ』の世界は、まだまだ終わらないのだ。(小野寺系)