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映画『恋は雨上がりのように』音楽面に注目 ミュージシャン起用の仕方の特殊さを考える

2018年06月10日 10:02  リアルサウンド

リアルサウンド

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 たとえば、くるりが犬童一心監督から依頼を受けて『ジョゼと虎と魚たち』の音楽を手がけた頃(2003年でした)は、まだ「ロックミュージシャンが映画音楽を手がける」ということにニュース性があったが、それがここ15年ほどでそうでもなくなった気がする。「あのミュージシャンがこの映画の音楽を担当!」というのが、さほどニュースにならないくらい普通になった、ということだ。


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 あ、“主題歌”や“エンディングテーマ”ではなく“劇伴”込みでの映画音楽の話です。ちょっと前だが、是枝裕和の『海よりもまだ深く』(2016年)はハナレグミ。もっと前だが、大根仁『バクマン』(2015年)のサカナクション。最近だと沖田修一監督の『モリのいる場所』(2018年)は、LAMAでの活動や電気グルーヴのサポートでも知られるagraphこと牛尾憲輔が、音楽を手がけている(ことを、観に行って知りました)。


というように、サウンドトラック全体をミュージシャンに依頼する場合もあれば、映画の中で使う曲をミュージシャンから提供してもらう、という組み方もある。三浦大輔監督『何者』(2016年)で、菅田将暉演じる神谷光太郎がライブハウスで歌う曲として、忘れらんねえよ柴田隆浩が「俺よ届け」を提供ーーというような例です。余談だが、映画ではこの曲、<絶対 俺変わってみせるから>というサビだったのが、後に発表された忘れらんねえよバージョンでは<絶対 俺変わったりしないから>と逆になっていた。笑いました。


  話がそれた。戻します。という劇伴関係で、最近気になった作品が、2018年6月上旬現在公開中の、永井聡監督の映画『恋は雨上がりのように』である。この作品の音楽、“ミュージシャンの起用のしかた”がちょっと特殊なのだ。


 まず、トータルの音楽監督は、原田知世などのプロデュースを手がけて来たボサノヴァ・ギタリストの伊藤ゴロー。で、彼の監修の下、神聖かまってちゃん の子&mono、忘れらんねえよ 柴田隆浩、スカート 澤部渡が劇伴を作っている。伊藤自身も作っているので、1本の映画に4組の劇伴制作者が参加している、ということだ。


サウンドトラックの曲目のクレジットを見ると、伊藤ゴローが17曲、の子が2曲、澤部が2曲、柴田が3曲。柴田の3曲が「近藤と小説 1」「近藤と小説2」「近藤と小説3」であるところを見ると、基本的には伊藤が書くが、あるシーンは柴田に、別のあるシーンは澤部に、というような発注のしかただったのでは、と思われる。


 そして主題歌。原作で主人公のあきらのお気に入りの曲であり(ただしこの映画では特にそのような描写はない)、原作の眉月じゅん曰く「このマンガのテーマソング」である、神聖かまってちゃんの「フロントメモリー」を、亀田誠治がアレンジし、鈴木瑛美子が歌うバージョン。というのがあったので、の子&monoの劇伴への参加も決まったのだろう。原作と切っても切り離せない曲だから使いたい、でも4年前の曲なのでそのまま使うのもなあ、カバーとかリメイクはどうだろう、という風に考えた果てに、こういう結果になったのだろうと推測するが、アレンジャーもシンガーも大正解、と言うほかない、映画を観ると。「うわ、こんなにいい曲だったのか」と、ちょっとびっくりするくらいの美しい仕上がりになった同曲が、エンディングで流れる。


 さらに。“劇中歌”として、現在人気急上昇中のポルカドットスティングレイの「テレキャスター・ストライプ」が使われている。映画の中で曲がかかるのは、“劇中歌”っていうより、オープニング曲なのでは?  というタイミングなのだが、曲をみっちり聴かせる感じではなく、映像に合わせてスパッと曲がカットアウトされる、みたいな使われ方なので、そうしたのだろう。


 というのが、映画『恋は雨上がりのように』の音楽のあらましになるわけですが。僕がこれらの何に驚いたのかというと、音楽が、以上のような布陣であること、以上のような作られ方であることが、“特にアピールされていない”、ということだ。


 の子とmono、忘れらんねえよ柴田、スカート澤部が参加していることが、「みなさん、こんなミュージシャンたちがスコアを書いてますよ!」というふうに喧伝されていない。もちろん情報としては公開されている。普通にクレジットされているし、必要な説明はされているが、それだけ。気になって映画のパンフも買ってみたが、やはり、簡素に事実関係が書かれているだけだった。つまり、話題作りとか、ロックファンにアピールしたいとか、そういうつもりがない、ということだ。


 じゃあなんで頼んだのか。この映画の音楽はこの人たちの手を借りて分業制で作りたかった、だからそうした、ということなのだろう、単に。三浦ゴロー以外の作家の色も入れたかったのか、それともたとえば柴田に「映画の音楽全部やってください」というのはスケジュール上無理だけど、ワンシーンならできるよね、みたいな理由だったのか、それ以外に事情があったのかは知らない。知らないが、そんな自然な、“特にアピールしない”佇まいに、かえって、これは何か書いておかなくては、という気になったのでした。


 ちなみに、人によって感じ方は違うだろうが、僕が映画を観た印象では、柴田も、の子&monoも、澤部も“映画の劇伴を作る人”に徹しているように感じた。要は己のカラーを出すとかよりも作品がよくなることを念頭に置いて仕事をしている、ということだ。正直、クレジットを見なかったら、彼らが作っていると気がつかなかったかもしれない……わかったかな? いや、自信ないです、やっぱり。


■兵庫慎司
1968年生まれ。音楽などのライター。「リアルサウンド」「SPICE」「DI:GA online」「ROCKIN’ON JAPAN」「週刊SPA!」「CREA」「KAMINOGE」などに寄稿中。フラワーカンパニーズとの共著『消えぞこない メンバーチェンジなし! 活動休止なし! ヒット曲なし! のバンドが結成26年で日本武道館ワンマンにたどりつく話』(リットーミュージック)が発売中。