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『デッドプール2』が提示する、社会のはみ出し者の視点からの解答 ヒーローとしての真の魅力を探る

2018年06月09日 06:51  リアルサウンド

リアルサウンド

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 アベンジャーズをはじめとするヒーロー映画が世界で記録的なヒットを成し遂げるなか、苦手でついていけないという観客も少なくない。アメリカ製ヒーロー映画の興行成績が比較的伸び悩んでいるという日本では、とりわけそういう傾向があるのかもしれない。けれども、そんな観客たちのなかからも、「デッドプールの続編だけは観たい」という声をよく聞く。2016年に公開された、『デッドプール』第1作には、そんなヒーロー映画への興味が薄い人の心にも届くような“何か”があったのだ。


参考:食い足りなさに感じる不思議な魅力 『デッドプール2』は“思春期に帰れる”


 続編となる本作『デッドプール2』では、そんなデッドプールというヒーローの魅力や存在価値に、さらなる奥行きが与えられていた。本作が表現した、多くの観客を惹きつけるデッドプールの真の魅力について、ここでは深く掘り下げて考えていきたい。


 デッドプールが(観客に他の映画の内容をネタバレするという暴挙を犯しながら)、燃料の入ったドラム缶を並べた上に寝そべり、自ら火をつけて自殺を試みるシーンから本作は始まる。一体、何が彼をそこまで自暴自棄にしてしまったのかは、直接本編を見てもらいたいが、ともあれ、驚異的回復能力を持ったデッドプールは、爆発により手足が吹き飛ばされ、身体が炎上しつつも、また再生し生き延びてしまう。原作コミックでも描かれていたように、それはまるで呪いのようであり、またヒーローが際限なく戦い続けなければならない悲しみを象徴的に表しているようでもある。


 今回、新しく登場するのが、未来からタイムトラベルしてきた、身体のかなりの部分が機械化された“ケーブル”という屈強な人物だ。彼を演じるジョシュ・ブローリンは、『アベンジャーズ』シリーズでは、最強の悪役“サノス”を演じていたため、デッドプールは彼を「サノス」と呼んだり、「暗い性格だな、DCユニバースから来たのか?」と、映画やコミックの会社の垣根を越えてまで、作品世界の外側に立った視点でおちょくりまくる。


 このように、ドラマのなかから抜け出して客観的な批評をすることができる「形而上学(メタフィジック)」的態度をとることができるというのが、デッドプールの最も大きな独自性である。彼は原作同様に、自分がいる世界が創作物のなかであることを理解しており、映画脚本に文句をつけだしたり、観客に話しかけてくることもしばしばある。さらに自分を演じているのがライアン・レイノルズという役者だということまで知っており、過去の出演作を苦々しく思ったりしているのだ。こうなるともはや観客の方も、いま自分が見ている人物がデッドプールなのかライアン・レイノルズなのか混乱してくる。そういう重層的な意味合いを持った存在がデッドプールなのである。


 エンターテインメントにおける多くのヒーローは、奇抜なコスチュームを身に着け、正義のために強大な悪の力と戦う。そんな姿を陳腐だと感じる大人も多い。自分が出演している映画を客観視できるデッドプールは、そのような事情すら飲み込んでおり、そういう観客の側に立って、ヒーローという存在を茶化してくれる。だからヒーロー作品に興味のない観客が、ある意味、バラエティー番組のような感覚で楽しむことも可能なのだ。


 未来から現れたケーブルは、ある理由から、孤児院で育てられた14歳の少年・ラッセルを殺害しようとつけ狙う。デッドプールも個人的な理由から、この少年を守らなければならない。両者は激突し、カナダのバンクーバーで大規模なロケを敢行したという、暴走する大型トラックのなかで死闘を繰り広げるシーンが、アクションとして最大の見どころとなっている。にも関わらず、カナダをバカにするギャグを作中に用意するという、過激なユーモアが本作らしい。


 ラッセル少年とデッドプールが出会ったのは、警察や報道陣が遠巻きに取り囲む孤児院の敷地だった。デッドプールやX-MENらと同じく、人間を超えた力を持つ“ミュータント”のラッセル少年が、手から火炎を放射する特殊能力を使って暴れ始めたのだ。未成年であることから、警察は狙撃ができないし、危険なので近寄ることもできない。そこで派遣されたのが、“X-MEN”の一部メンバーたちである。


 X-MEN“見習い”としてそこに参加していたデッドプールは、「俺ちゃんの初任務!」と勢い込んで、率先して少年の逮捕に協力しようとするが、じつは孤児院の責任者や職員がミュータントの子どもにひどい虐待をしていたという事情を知ると、一転して、虐待に加わっていたとみられる孤児院の職員の頭部を銃で撃ち抜くという行動に出る。鋼鉄の身体を持つX-MENメンバー“コロッサス”は「罪人を裁くのは俺たちの仕事じゃない!」と怒り、デッドプールを拘束して警察に突き出してしまう。


 確かにヒーローには、一般市民と同じように法律を守るという義務が課せられている。正義を行っているといっても、自分の考えだけで善悪を判断し、殺人を犯すようなことはあってはならない。バットマンが、ジョーカーからどんなにひどい仕打ちを受けても、大事な人を殺されたとしても復讐の殺人ができないのは、このためである。また『スパイダーマン』では、「大いなる力には、大いなる責任がともなう」というメッセージが重要な意味を持っていた。しかしデッドプールは、もともとそんなことお構いなしに、悪人をどんどん刀や銃で惨殺していくという、なかば異常性を持った存在だった。この意味において、デッドプールは「ヒーロー失格」といえよう。しかしラッセル少年にとっては、そうではなかったようだ。自分のために殺人を犯し、警察に逮捕されるデッドプールに対して、彼は深いシンパシーを感じることになる。


 ラッセル少年は、孤児院のなかで「けがれた存在」だとミュータント差別を受け、電気ショックなどの拷問を受け続けるという、想像を絶する苦しみを味わっていた。苦痛に耐え続けている間、彼は世の中の全てを恨み絶望していたはずだ。そんな子どもが果たして、高潔なヒーローたちにあこがれを感じるだろうか。虐待を受けているときに助けてくれなかったヒーローの言うことを信じることができるだろうか。彼にとっては、自分を虐待した悪人を、躊躇なくぶっ殺してくれる存在こそが真のヒーローなのである。そして、それを成し遂げることができたのは、他のヒーローたちから疎外されがちなデッドプールただ一人だったのだ。


 また、自分が太っていることで、そんな自分は、たとえ力を持っていたとしてもヒーローとしては受け入れてもらえないだろうということを、ラッセルは語っている。確かにコミックヒーローの大部分は、基本的にスレンダーかマッチョな体型ばかりである。その意味では、どんな見た目でも問題なく受け入れられる悪役の方が、むしろ寛容だといえるのではないだろうか。次第に追いつめられていく少年の姿は、若者が周囲の価値観に合わないことからグレて犯罪に走るようになるまでの、現実的な過程を見せられているようだ。


 さらに本作は、闇に包まれていく少年の心に接近していく。差別された者が差別をする、暴力を受けた者が暴力を振るうということは、現実にもあることだ。FBIの発表によると、特定の人種や趣向を持つ人に対する偏見や憎悪によって引き起こされる犯罪「ヘイトクライム」が、近年増加傾向にあるという。それらを引き起こす犯罪者を刑務所送りにするだけでは、この種の犯罪の決定的な抑止にはならないだろう。彼らの考えを変えるためには、心を救わなければならない。劇中で、前作から登場していたヒーローが同性を恋人にしている描写からも分かるように、社会がもっと多様性を受け入れ、少数者や、社会から“のけ者”にされている人々に居場所や役割を与えなければならないということを、本作は語っている。


 とにかくギャグ満載でふざけてばかりいる『デッドプール2』だが、描かれている問題はきわめて深刻で今日的だ。デッドプールは、そこに優等生ヒーローには真似できない、社会のはみ出し者の視点からの解答を提示したといえる。これ以上の続編が制作されるかは分からないが、その意味で、本シリーズは存続する意義がある作品であることは間違いない。デッドプールは、いまの時代の人々を救うことができるヒーローだからである。(小野寺系)