僕はほとんど引きこもりなので、家の中で完結する娯楽には目がない。たとえばテレビゲーム。プレステ3とプレステ4しか持っていないが、過去のハードに対応していたソフトがダウンロード配信されているので、さほど不自由は感じない。ゲームをする環境自体は、昔より遥かに柔軟になっているように感じる。
しかし、身近なゲームユーザーたちの声を拾ってみると、意外と現状に満足していない人も多いようだ。一体、今のゲームのどこが、彼らの顔を曇らせているのだろうか。(文:松本ミゾレ)
プレイヤーのテンションを無視して勝手に盛り上がる登場キャラたち
先日、おーぷん2ちゃんねるに「最近のゲームがつまらない理由は受動的にしかプレイできないから」というスレッドが立った。スレ主曰く、最近のゲームがつまらないのは、プレイヤーが受け身にならざるを得ない作りだからだという。何か動けることがあっても「ストーリーを読むだけだったり、システムを動作確認するだけだったり、それしかないからすぐ飽きる」とも書き込んでいる。
言わんとしていることは、分からないでもない。2000年代の初めぐらいから、いわゆるムービーに頼ってばかりのゲームって増えたし、「豪華声優陣起用!」みたいに、ゲームの本筋とは違うところでお金を使う会社も多い。
その結果、ユーザーを待ち受けていたのが、ただ目の前で繰り広げられる美麗なムービーシーンを眺めることしかできない状況。またはプレイヤーのテンションを無視して、勝手に盛り上がる登場人物たちのアニメチックな芝居シーンの応酬だった。
テレビゲームって本来、プレイヤーを主体として盛り上げるコンテンツだ。もちろん、面白いゲームだってたくさんあるんだけど、プレイヤーをないがしろにしているように感じるものも多い。
「なぜこの程度が出来ない」が重なって「飽きた」「つまらない」になる
僕らは世界を救いたいわけでも、ヒロインを救いたいわけでもなく、ゲームをしているのだから、そこを二の次にされるのは、ちょっとキツいのだ。折しも今年初めには「モンスターハンター:ワールド」が発売され、世界的にも大ヒットした。これも主要なゲーム部分は自力に頼るところが多いので、技巧を仲間と競う人、ソロプレイに没頭する人が続出した。
しかし一方で、途中で挿入される、無駄に壮大なムービーシーンに辟易する声はよく耳にした。僕もその1人だったし、しょっちゅう該当シーンをスキップしたものだ。あのムービーイベントって、意味があるものなんだろうか。
こと、ゲームにおいては自由度という概念がやけに重視される。一本道のシナリオでは味気ないから、マルチエンディングにしたり、無関係な他人に攻撃できたり、自由度を追及すると際限なく遊びの可能性は広がる。でもその一方で、どこかまだ常識に囚われている作品も多い。
「これができるのに、なんでこんな程度のことができないんだ」という感情は、ゲーマーを苛立たせる。それでなくてもほとんどの家庭用据え置きゲーム機なんて、スイッチを入れてから遊べるまでに1分ぐらいかかるんだから、遊んでから無駄な手順を追いたくない。
ユーザーはワガママだ。「なんでこの程度ができない」が二度、三度重なると、「飽きた」「つまらない」と判断してしまうのだろう。