GP Car Story第24弾は、疑惑のチャンピオンカー『ベネトンB194』を特集。セナの事故死で混沌とする1994年のF1界、台頭著しいシューマッハー&ベネトンは、新しい王に就かんとその力を遺憾なく見せつける。
しかし“規則違反”を理由に何度となくペナルティを科せられて激しいバッシング。B194は両者に初タイトルをもたらしたものの、『疑惑のクルマ』のレッテルは最後まで剥がされることはなかった……四半世紀の時を経て、マシン開発の当事者であるロリー・バーンやパット・シモンズらを直撃! 彼らは一様に「濡れ衣」と言うが、果たしてその真相は?
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1994年シーズン、ミハエル・シューマッハーはベネトンB194を駆って初のワールドチャンピオンに輝き、自身の伝説の幕を開けた。
しかし、希代の名ドライバー、アイルトン・セナと新人のローランド・ラッツェンバーガーを失ったイモラでの惨事がその後のF1に異様なほどの変化をもたらし、史上最悪のシーズンのひとつとして認知されたことで、シューマッハーの初戴冠の偉業は陰に隠れてしまった。実際にはこのシーズンをシューマッハーとベネトンは、圧倒的な強さで制覇していたのだが……。
シューマッハーとB194は、開幕戦ブラジルGPから絶対的な速さを発揮して優勝。その後もパシフィック、サンマリノ、モナコGPで4連勝を記録するなど、シーズンを通して8勝を挙げた。それも失格&出場停止で4レースも失いながらの8勝は、もはや驚異と言うしかないだろう。
■手書きで書き上げたフルスケールの図面
B194はコスワース開発のフォード・ゼテックR V8エンジンを搭載するコンパクトなマシンとして登場した。生みの親は天才デザイナーのロリー・バーンで、彼もまたこのB194で初めてチャンピオンを獲得し、カリスマデザイナーへの第一歩を踏み出したのだ。
「私がレイナードから再びベネトンへ戻ったのが91年11月だった。しかし、ベネトンには92年向けのマシン開発プログラムがいっさい存在しなかったんだ(筆者注:B191から開発のすべてはジョン・バーナードのGTO(ギルフォード・テクニカル・オフィス)で行なわれていたが、B192の開発プログラムがGTOで始まる前にバーナードは解雇された。その結果、B192の開発は事実上行なわれておらず、ベネトンには開発データが何も存在しなかったと考えられる。同じ状況は、バーンがフェラーリへ移籍した時にも発生した)。
私がロス・ブラウンとトム・ウォーキンショーと合流した段階でも、B192の開発はまったく手がつけられていなかった。手元にあるのは開発コンセプトが見えず、信頼性も低く、走るたびにどこかが壊れてしまうようなB191があるだけで、特にコンポジットサスペンションは本当にひどかった」
最悪の状況下でベネトンに復帰したバーンはまず、B191の改良に取りかかる。
「わずか1カ月で新車を開発するのは無理だし、風洞のプログラムもまったく機能していなかったので、仕方なくB191を走れるように改良したB191Bで92年シーズンをスタートした。91年のレイナード時代の資料やデータは手元になかったが、私が覚えているデータを使えば、とりあえずはかたちにできるとロスやトムには伝えた」
「ふたりともその意見に賛成してくれたが、現実的な問題としてほかに方法はなかったんだけどね。トムのオフィス(TWR)にフルスケールの製図板を置き、記憶をたどりながら図面を書いたよ」
バーンはこの時、すべてのボディワークと各セクションの図面をひとりで描き上げている。しかも手書きのフルスケールでだ!
開幕3戦をB191Bで戦ったベネトンは、第4戦スペインGPからバーンがデザインしたB192を投入した。そして、初戦でいきなりシューマッハーが2位表彰台を獲得している。
「ハイノーズを採用したB192だが、元々レイナードでもそうするつもりだった(B191はバーナードが開発したことになっているが、ハイノーズコンセプトはバーンがB191に採用する予定だったもので、それをバーナードが取り入れた)。ハイノーズは(ジャン‐クロード)ミジョーがティレルのマシンに採用したもので、結果的に彼はそのアイデアを諦めてしまうが、我々がそれを進化させたんだ。フロアの効果が急激に増し、リヤのダウンフォースも大幅に向上した」とバーンは、新コンセプトへの進化を回顧する。
「B192はコンベンショナルカー&マニュアルシフトのギヤボックスだったが、翌年のB193Bはスーパーハイテクマシンだった。ありとあらゆる部分で、ハイテク制御を可能にしたんだ。サスペンションだけではなくジオメトリーのアクティブ変化や4輪操舵もハイテク制御で行なっていたし、ラウンチコントロール、トラクションコントロールも使っていた」
「なかでも、ライドハイトはアクティブサスペンションとは別にマニュアルスイッチを設けていて、ドライバーの必要に応じてリヤのライドハイトを変更できるようにしていたし、同じようにフロアアングルも選べた(現在で言うレーキ角のこと)。B193Bのアクティブライドハイトの制御も4輪操舵も、きわめて効果的だったよ」
■B194がエアロダイナミクスの基礎を築いた
しかし、94年……。
「マクラーレンが独立パワーブレーキシステムを使い始めたことなどから、FIAはレギュレーションでハイテクデバイスを禁止してしまった。ハイテクで残ったのはセミオートマチックギヤボックスだけだった」
当時のマックス・モズレーFIA会長が、それまでF1が培ってきたハイテクの進化を一気に切り捨ててしまったのだ。
「アクティブライドでは、常に最上のエアロ効果が得られるライドハイトの維持に集中してきたが、すべての制御機能が禁止されたので、B194ではライドハイト変化を含めてあらゆる状況下でエアロ性能が変わらないように開発を進めたんだ。ピッチセンシティビティ(上下動への敏感性)を抑えるために、ピッチ・ヒーブ・ロール・ヨー変化などへのエアロ反応を徹底的に研究した。その結果、幅広い状況下でエアロ性能の維持に成功したんだ」
レギュレーションに異議を唱えるのではなく、与えられた規則の下で最上の方法(かなり際どくとも)を考えていく。これまで多くの成功を産んできたバーンのポジティブエンジニアリング思考だ。
「実は、B194のエアロ開発のコンセプトは、その後のエアロダイナミクスへの考えを大きく変えた。現在に続くエアロダイナミクスの“基礎”になっていると言っても過言ではないだろう。当時としては、かなり未来的思考法だったと思うよ」
エアロの天才、バーンを開眼させたマシンこそが、B194と言ってもよさそうだ。余談だが、94年のウイリアムズFW16はバーンが語っていたワイドレンジのエアロ効果を作れず、過激なピッチセンシティビティに泣き、名手セナでも開幕戦からスピン、コースアウトを重ねていた。ウイリアムズがこの問題に対処して、本来の速さを発揮するまでにはシーズンの後半まで待たなければならなかったが、「その時にはもうセナはいなかった……」とウイリアムズのエンジニアが悲しんでいたことを思い出す。
話を元に戻そう。バーンがB194で目指したものは、走行状態にかかわらず安定したダウンフォースが得られるエアロと、それを支持するビークルダイナミクスだった。そのためには、「パッシブサスペンションの研究開発は欠かせなかったが、結果的にB194はセッティング変更に対してしっかり反応するマシンになった」とバーンは明かす。
「B194には大幅な軽量化を施し、大量のバラスト搭載が可能になった。それらを床下に搭載することで大きく重心を下げられ、パッシブでの運動性も大幅に向上したんだ。B194以降、シャシーの徹底した軽量化も私の重要なマシンコンセプトのひとつになった」
のちにバーンはフェラーリへ移籍するが、軽量化を開発の中心のひとつに据えていて、F1-2000のマシンコンセプトでも大きな役割を担っている。その発想は、B194から受け継がれたものだといえる。
そして、マシン作りにおいて重要な要素である風洞に関してもバーンは対策を施した。
「マシン作り以前に、風洞での実験方法を大幅に見直す必要があった。B194の優れたエアロは、その改善なしにはここまで大きな成果を得られなかったはずだ」
バーンによれば、風洞ではヨー角反応、ステアリング反応などの開発もこの時点から行なっていたというが、実験段階の基礎から開発コンセプトに合わせていたことが功を奏したと言えるだろう。風洞の大切さにいち早く目をつけたということでも、バーンの功績は大きい。
94年のサンマリノGPでF1史を揺るがす大事件が起こると、FIAは急速に安全性を叫び始めた。シーズン中にもかかわらずレギュレーションは大幅に変更され、10㎜厚のプランク(スキッドブロック)を義務化、ディフューザーやウイング関連は厳しく規制、そしてインダクションボックスにはラム圧を抜く排出口まで開けられたのだ。空力とエンジンの性能を落して安全性を高めるというのがFIAの狙いである。本来なら相当大きな空力性能の変化があったはずだが……。
「不思議なレギュレーションをたくさん並べてきたが、あまり効果のあるものではなかった。ただ、プランクの設定はありがたかった。エアロ云々ではなく、そのおかげでフロアを傷めないで済むからね。とはいえ、ベルギーGPではミハエルが優勝したものの、プランクが縁石で削れて10㎜を下回ったという理由で、レース後に失格になってしまった。嘘みたいな話さ」
もちろん、それが実際の理由でないのは明らかで、どうやら政治的な理由だったようだ。事実、車検でプランクの厚みをピンポイントチェックされたのはB194だけで、他車のほとんどは車検の対象にすらならなかったのだから……。
■コンパクトなフォードV8エンジンが可能にしたショートホイールベース
V8、V10、V12のエンジンが入り交じるなかで、この年のベネトンはフォードのゼテックR V8 エンジンを搭載。バーンは、このエンジンを高く評価していた。
「ゼテックRはコンパクトで軽く、燃費の良いエンジンだったので、B194に大きく貢献してくれた。別にパワーがあったわけではないが、V8でエンジン本体が短く、これがショートホイールベース化に役立ったんだ。おまけにパワーバンドやトルクバンドが広く、スロットルにリニアに反応する良いエンジンだった」
「おかげでギヤボックスは6速で十分だったし、その全長も短く作れたので、ホイールベースを100㎜短くできた。ショートホイールベースは軽量化、重量の車体中心ヘの集中化、車体剛性の向上にきわめて有効で、B194の開発コンセプトにフィットしたエンジンだったね」
「ちなみに、翌年のB195に搭載した3000㏄のルノー・エンジンは、3500㏄だったゼテックRよりもパワーは出ていたよ。でも、F1エンジンのトップパワーはそれほど大きな問題じゃないんだ。一番使うレンジでリニアに反応してくれれば、マシンは速くできるんだ」
バーンの説明にもあるとおり、ゼテックRエンジンはコンパクトで燃費がよく、レースのスタート時から他車よりも軽い燃料搭載量で走れたので、それが序盤の快走につながっていたはずだ。
それにダウンフォースは車体状況にかかわらず広いレンジで安定しており、軽量・低重心でショートホイールベース、素早い回頭性とリヤの追従性が優れているという、B194のトータルパッケージの良さは群を抜いていた。ゴーカート走法から生み出されたシューマッハーのドライビングスタイルに、B194が見事に呼応したと言うべきなのだろう。
「確かに、ミハエルの果たした役目は大きかった。しかし、巷で言われているほどB194は、“ミハエル・スペシャル”ではなかったよ。彼はベネトンでフル参戦3シーズン目を迎えていたわけだから、チームの目がミハエルを向いていたのは確かだし、あらゆる条件がミハエル・ファーストであったことも事実だ」
「だが、B194はあくまでもレーシングカーの理想を追求して生まれたマシンで、チームとミハエルが一緒になってそれを追い求めた結果なんだ。それに、限界領域で走るF1マシンが乗りやすいなんてことはまずあり得ない。トップドライバーなら、誰もがそれを理解しているはずだ」
それでは、自らの理想を追求したB194は、バーン自身にとってどんなマシンだったのか。
「B194は私のなかで、新しい時代に踏み出すきっかけになってくれたマシンだ。ベネトン時代の最高傑作だったと思う。翌年のB195でもチャンピオンを獲得したが、実際の性能や完成度はB194を超えていないんだ。
94年の最終戦オーストラリアGPでミハエルはデイモン(ヒル)と接触してタイトルを手に入れることになったが、それは数字上のトリックさ。ベルギーGPの優勝を含んで2レースを失格、それもあり得ない理由でだ。フォーメーションラップでデイモン(イギリスGP)を抜いたとか、プランクが減っていたとか、因縁をつけられた。それに加えて2レースの出場停止。このペナルティも、まったく訳の分からないものだった。我々は何もしていないというのに……」
さらに、バーンはこう続けた。
「B194は私にとって、生涯忘れられないマシンだ。B195をデザインするなかで、B194という素晴らしいマシンを消し去ろうとする政治的な力を感じた。だから嫌気が差して、95年でF1からのリタイアを決めたんだ。B194がそのきっかけとなった(ジャン・トッドやブラウン、シューマッハーに誘われ、97年にフェラーリへ復帰)。
想像してみてくれ。もし、あの悲しい事故さえ起こらなければ、セナの駆るFW16とミハエルの駆るB194が最終戦まで激しいチャンピオン争いを繰り広げていたはずだ。それはきっと、F1史に残る最高のシーズンになったと思う」
遠い空の向こうを見つめるように語るバーンの脳裏には、きっとB194のシューマッハーとFW16のセナによる激しいバトルが浮かんでいるに違いない。それは、バーンが育てた伝説的ドライバーふたりによる戦いなのだから。
GP Car Story Vol.24「Benetton B194」は6月7日(木)発売!