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ceroの傑作『POLY LIFE MULTI SOUL』を、5人のライターが語る

2018年06月05日 14:31  CINRA.NET

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■語り継がれるであろう作品の誕生を祝して
2018年5月16日、ceroが、4thアルバム『POLY LIFE MULTI SOUL』をリリースした。前作『Obscure Ride』から約3年ぶりとなる本作は、5月15日付けのオリコンデイリーチャートにて1位を獲得。「日本の音楽シーンのなか」だけでなく、世界的に見ても、かなり前衛的でエクスペリメンタルな創作をやり遂げた本作が、多くのリスナーの耳と心を喜ばせている。

CINRA.NETでは、月ごとにプッシュしたいカルチャー作品・人物を「今月の顔」として取り上げているが、今月はceroをピックアップした。単純な言葉や常套句などでは決して語り尽くせない本作を、5人の音楽ライターに、それぞれの視点から綴ってもらった。「連なる生、散らばる魂」を意味する『POLY LIFE MULTI SOUL』に寄せて、言葉を連ねる。

■「海外の重要な動きともリンクしている」テキスト:宇野維正
ミュージシャンの口から「海外の音楽シーンとか最近あまり追ってなくて」みたいな言い回しを耳にすると、ちょっとがっかりする。「追ってないこと」についてではなく、「追うもの」という意識を持っていることに対してだ。今このタイミングで世に出ている音楽は、誰かが数か月前にマスタリングを終えた音楽で(最近のラップでは配信解禁の数日前みたいなことも多いけれど)、それを追って、咀嚼して、血肉化して、録音して、マスタリングする間に世界はもう何周も回っている。

前作『Obscure Ride』と今作『POLY LIFE MULTI SOUL』の最も大きな違いは、その「追うもの」という意識から完全に脱却しているところ。特に耳を捕らえるのは、複数の打楽器、複数の鍵盤楽器、男女混声コーラスからなる、ポリリズムとポリフォニーが高度に融合したアフロ的なテイストだ。“魚の骨 鳥の羽根”“レテの子”“Waters”“Poly Life Multi Soul”あたりは、ドレイクがブラック・コーヒーを援用し、ケンドリック・ラマーがベイブス・ウドゥモを招集し、チャイルディッシュ・ガンビーノがルドウィグ・ゴランソンと今まさに模索している、最新型のアフロ解釈とも呼応しながら、むしろ音楽的な実験性や洗練度においてはリードさえしている。もちろん、アフリカンミュージックはポップミュージック史において繰り返し浮上してきたキーワードだし、本作の制作過程においても膨大な過去の参照元はあったのだろうが、同じ時代の空気を呼吸し、吐き出したものが、自然に海外の重要な動きともリンクしていることに興奮を覚えずにはいられない。

■「『生』を見つめ直す機会を与えてくれる」テキスト:小田部仁
充実した状態のバンドが、マスターピースとなるような作品を残すとは限らない。朽ちてゆく肉体と創造性が見事に合致する、その瞬間を「芸術」として捉えるのは音楽に限らず至難の技で。だからこそ、本作のような作品がポピュラーミュージックの歴史に残る傑作として語り継がれるべき理由があるのだと思う。ceroは、最高の状態で最高の作品を創ることを成し遂げた。

『POLY LIFE MULTI SOUL』はタイトルに冠するように、宇宙に瞬く無数の星のごとく煌めく「命」そのものを記録した作品だ。「水」「川」「光」というような古来から生と死を司るモチーフを巧みに用いながら、ceroは我々がここに存在する(あるいはしない)不思議を検分する。

本作でも引用されているレイモンド・カーヴァーの作品をかつて村上春樹は「あるひとつの状況にひっそりとして目立たない変化が起こる。しかし本質的なレベルでは何も変化しない。ストーリーはそこでカット・オフされて終わる」と、評した(『夜になると鮭は…』中央公論社 / レイモンド・カーヴァー著、村上春樹訳にて)。『POLY LIFE MULTI SOUL』に置き換えていえば、生と死は不可逆であるという真理を知りながらも、「命」というものの多層性、多様性にふとした瞬間に気づいてしまったとき、世界はあまりにも違って見えるーーしかし、ぼくらの「生」は「死」に向かって歩みを止めることはない。カーヴァーの作品にも共通するように、問題はその「気づき」の後をどう生きるかなのだ。

改めて、この作品の誕生を讃えたい。素晴らしいバンドが充実した状態で最高の作品=命の証を残したということ、そして、この作品が聴く人の「生」を見つめ直す機会を与えてくれることを。『POLY LIFE MULTI SOUL』は、間違いなくceroの最高傑作であり、ぼくらの人生に訪れたひとつの福音だ。

■「ポリリズムが浮かび上がらせる世界の律動と新たな物語」テキスト:小野田雄
世界はポリリズムにあふれている。ジャスティン・ビーバーをフィーチャーしたスクリレックス&ディプロ“Where Are Ü Now”のような近年のビッグヒットからTears For Fears“Everybody Wants to Rule the World”のような誰もが知るポップスクラシックやLed Zeppelin“Black Dog”のようなロック史に燦然と輝く名曲、ケンドリック・ラマー“Wesley's Theory”のようなヒップホップ、Don't DJの諸作ようなオルタナティブなダンスミュージックまで、そうした曲に重ねられた複数のリズムに気づくと、音楽はぐっと躍動感と深みを増す。分析的にならずとも、例えば、ギターとドラムの複合的なリズムがあるとして、そのどちらかのリズムを取ってみれば、それによって体の揺れ方が変わるし、曲の聴こえ方も変わることに気づくはずだ。

ceroの新作『POLY LIFE MULTI SOUL』もまたポップミュージックとしてのポリリズム、その「踊れる」というキャッチーな感覚を共有するリスナーに音楽の楽しみ方、その新しいアングルを提案する。その好例が12インチシングルで先行カットされた“Waters”だ。この曲がトラップやステッパーダブのように聴こえるのも、ハウスやファンクのように聴こえるのも、曲中で走る複数のリズム、それぞれに持たせた異なる音楽のニュアンスがアングルによって変化し、浮かび上がってくるからこそ。個人的には、アフロビートを土台に、クラブミュージックとのクロスオーバー化が進む新興UKジャズシーンとこの作品のシンクロニシティーを興味深く眺めているが、そんなポリリズミックな視点で捉え直してみれば、今福龍太『群島ー世界論』(岩波書店)がそうであるように、躍動する世界の重層性は新たな物語を紡ぎ出してくれることだろう。

■「音楽がもたらす一夜の全能感を凝縮」テキスト:金子厚武
残りわずか1年半となった2010年代を振り返ったときに、「日本のポップスに楔を打ち込んだ」として象徴的に語られるのは前作『Obscure Ride』かもしれない。しかし、昨年1月の『THE KIDS』リリース当日に行われたSuchmosとの2マンにおける、高城晶平の「彼らのおかげで、自分たちのやるべきことがはっきりした」という発言(Suchmosのみならず、上昇志向と音楽愛を持ち合わせた多くの若手を指していたように思われる)を裏付けるかのように、あくまでceroらしく、生演奏によるグルーヴが綿密に追及された本作は、間違いなくバンドの最高到達点を更新した作品となっている。

そして、これだけ複雑なレイヤー / ポリリズムで構成された楽曲が並んでいるからこそ、最終的に4つ打ちへと収束していくラストナンバー“Poly Life Multi Soul”の高揚感がとんでもない。リズムはアフロが基調だが、BPM120ほどのハウスをモチーフとし、音楽がもたらす一夜の全能感を凝縮した歌ものダンストラックとして、くるりの“WORLD'S END SUPERNOVA”に匹敵する大名曲。この国のエクレクティシズム / クロスオーバーを体現し続ける愛すべき先輩・後輩が、確かに交わったような感動も覚える。重なる愛、重なるリズム、重なる生、重なる魂。

■「サポートメンバーの参加は予想外の大きな果実をもたらした」テキスト:松山晋也
あれだけ八方から絶賛を浴び、実際私も非常に気に入っていたわけだが、今回の新作を聴いた後に前作『Obscure Ride』を聴き直してみると、なんとも物足りなさを感じてしまうというのが偽らざる実感。それほど今回の飛躍ぶりはすごい。ジャズやネオソウルを基軸にしたエクレクティックかつポエティックな日本語ポップスという基本路線に変わりはないのだが、素材の咀嚼力、アンサンブルとしての表現力が格段に向上し、前作までに若干感じられた「勉強しました」的な生硬さがまったくない。楽曲構造もアレンジもますます複雑になっているが、その複雑さを感じさせないポップスとしてたたずまいの美しさに圧倒される。

ここにあるのは、複雑さを通過したシンプリシティ、スキルを感じさせないネクストレベルのスキルによって獲得された新たな自由だ。カラフルになったハーモニー、ポリリズムが次々と呼び込んでゆく言葉、ひとつのドラマを見ているような全体の自然な流れの力強さ……言いたいことは山ほどあるわけだが、特に、小田朋美(Pf,Key,Cho)と角銅真実(Per,Cho)の参加は予想外の大きな果実をもたらしたのではないかと思う。参加者全員が対等につながりフィードバックしあったオクタングル(八角形)ポップスだ。

(編集:矢島由佳子)